納得できないロール寿司

『ドライブマイカー』が1000点の映画らしい。見に行きたいが都内の映画館には行きたくない。小山までテレポートする手段があるなら6200円くらい払ってもよい。しかし小山の人は嬉しくないだろう。小山の手前は間々田。実は間々田に連行された経験があり、北関東の記憶の境は間々田と小山の間にある。小山にドライブマイカーを見に行けばこの境界が更新される。遠い。

持っているはずの原作『女のいない男たち』がどうしても見つからないので、文庫版を買った。なんとなく文庫版は最近出たのかと思っていたが、初版は2016年らしい。単行本は2014年4月とのことで、わりと出てすぐ読んだので文庫が出たことに気づいていなかった。あるいは目に入っても認識できていなかった。

2014年の夏、当時付き合っていた恋人に振られた。これはおそらく一定期間以上付き合った人間に振られた最後の事例だと思うのだけど、それが起きたのが『女のいない男たち』の発行年だったというのは奇遇だ。当時、その二つを結び付けて考えることはなかったような気がする。

再読の途中なのでもしかしたらそういう話もあったかもしれないが、村上春樹の小説に納得はあまりないように思う。読者が納得しない、というわけではなくて、登場人物の心情として。まあ、みんながみんなストンと納得してしまったら物語なんて成り立たないのだろう。もちろん長い時間をかけて納得に至る物語はあるに違いないし、2014年夏の終わりはまさしくそういった納得を伴うものだった。詳しいことは省略するが、なるほどなと本当に腑に落ちてしまったのだ。

これまで最も納得できなかった寿司はカザンで食べたマンゴー寿司です。

 

石と鉄

不純な動機でイサムノグチ展に行ってきた。デートとかではない。主な感想は二つあって、まずはこういう彫刻になりたいと思った。もう一点としては、美術館内に置かれていては少し物足りないと感じた。これまでイサムノグチ作品に触れてきたのが、もっぱらモエレ沼公園だったからだろう。思えば札幌に住んで初めて訪れた観光地らしき場所がモエレ沼公園だった。あそこにアクセスしやすいのが札幌の長所と言っても過言ではない。

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それからバスク彫刻のことを思い出した。バスクを代表する彫刻家、エドゥアルド・チリーダ。イサムノグチの20年後にサン・セバスチャンに生まれた彼は、バスクゆかりの素材としての鉄を使って無数の彫刻を作った。ゆかりとは何かというと、たとえばバスク地区のビルバオは今でこそグッゲンハイムの力で芸術都市として生まれ変わったが、それまでは製鉄業の都市であった。バスクの都市を代表する素材が、鉄だったのだと言える。

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チリーダ《風の櫛》(サンセバスチャン)

チリーダの彫刻の一部は、錆びを作品を構成するプロセスとして取り入れている。金属が経年変化していく様を示す彫刻は、ビルバオの運命を暗示するかのようだ。というわけでいつかバスク地方を訪れたい。

錆びを味わう気持ちが足りないと言えばそれまでだが、最近は色々なものを購入している。これまでも当然無数のものを買ってきたが(とはいえ自分はものを買わない方だとは思う)、複数の品物が同一日に到着すると買い過ぎかなと若干焦る。買い過ぎそれ自体というより、同時に買うことでそれぞれに対する気持ちがおろそかになるのでは?という懸念だ。

・将棋盤&棋書

ビリヤニキット

・服

・クッション

・折りたたみ傘

・ミステリ

気が向いたら所感を書くことにする。

雨波子

今週のお題が寿司ということを今更知った。今週のお題は寿司らしいと言っている人は見かけたのだが、セルフお題を設定しているのかと勘違いしていた。物狂おしいほどに寿司を求めていたので、どうやらはてなブログと寿司周期が似通っているらしい。

谷根千。20代後半になるまでほとんど寄り付かなかったエリア。よくよく考えてみると、学部時代は新宿やら高田馬場で手一杯で、その後は札幌に数年住んでいたのでさもありなんという感じだ。学部生から谷根千を開拓するような風流人ではなかった。大学がそちらにあればまた別なんだろうけども。思えば神楽坂あたりがその手の場所に相当するんだろうか。それにしたって神楽坂のUFOキャッチャーの設定が異様にゆるくなんでも取れたことしか覚えていない。神楽坂は自分の中で、非現実的な住みたい街ランキング1位に輝き続けています。

話を戻すと谷中(千駄木駅からすぐだが、住所的には谷中らしい)の寿司屋、乃池に行った。外で寿司を食べるのは半年前に行った根津の寿司屋ぶりである。他にも行きたい寿司屋はまだあり、このあたりは寿司天国といった趣。新宿は寿司不毛の地なので、こればかりは羨ましくなってしまう。

筋子の西京漬け。ものによってはいけるのだが、西京漬けはそんなに得意ではない。みそ系統の料理はハマると最高だが、一定のクオリティまでだと微妙に感じる体質のようだ。筋子の西京漬けは前者。筋子のしょっぱさと西京みその甘さが交互に押し寄せる波となって訪れ、圧倒される。ついついこんな表現を使ったが、その見事なコントラストの一方で、全体としては棚田のような落ち着きを保っている点が見事というほかない。こんな完成度の高い料理を手頃な値段で食べさせてくれることに感謝だ。

もう一点。マグロはおいしさ曲線が一直線というか、なかなか差を表現することが難しいネタだと思っているのだが、乃池のマグロは妙に優しいまとまりがあり、どうも記憶に残りそうだ。

なんてことはない素材を鮮やかに表現する。寿司でも文章でも、そういった妙技を披露してくれる人たちには心底敬意を払いたい。そういえば前回の根津の寿司屋の日にも雨が降っていた。雨の不快感を寿司が弾き飛ばしていく。

小学校の思い出

ゲーテの『ファウスト』を読んだのは中高生の頃だったと思う。細部についての記憶はほとんど残っていないが、外国語の韻文を訳すことの難しさと、それゆえ醸し出されるいわゆる翻訳調の香りを教えてくれたのが『ファウスト』だった。この作品について多くの人が想起するのは、「時よ止まれ、お前は美しい」という臨終の台詞だろう。あるいはこのフレーズが一人歩きしていると言った方がいいかもしれない。

時間の停止は人類の夢であった。と書いてどれほど賛同が得られるかは不明だが、私たちが時間という枠組みに束縛されており、そこからの脱出を一定の程度まで求めている側面は否定しがたい。ごく卑近な例としては、労働の時間からの脱出としての余暇。その代表としての旅行は、またしても時間の制約から逃れることが出来ないというジレンマを抱えている。それから、言うまでもなく老いが存在する。時間は有限の生と同時に、その終わりとしての死を可能にするものであり、それゆえ時間の神は恐怖されてきた。

死の恐怖におびえて暮らす子どもだった。物心ついた頃、大地震についての番組がしばしば放送されており、高層ビルが崩壊する光景を思い浮かべながら眠った。いつ頃までこの恐怖と格闘してきたかは定かでない。中学生の時分にはテロメアに興味を示していたことは覚えている。細胞の分裂回数を規定するテロメアは、なぜ存在するんだろうと考えていた。そんなものなければいいのに、と。大学生になって書いたレポートのひとつでは、意識をインターネット上にアップロードしてある種の不死を達成したいと述べたことを覚えているから、その頃にはまだこの恐怖の残滓を感じていたのだろう。

タンスの裏に落ちて忘れた名刺のように、今ではほとんどこの問題に思い悩むこともなくなった。いつかは拾い上げて顔をしかめるだろうが、少なくとも今のところは埃まみれの感情だ。だが幼年期が終わりを告げる前、それは深刻なまでに身を焦がし、奇妙な野心を抱かせるに至った。

ブラックホールに突入したい。

ブラックホールには全ての物質が吸い込まれるが、吸い込まれた物質は一体どこへ行くのか。これは未だ解明が進んでいない難問である。だが逆に、ブラックホールはこの宇宙の外側へとつながる回路になっているのではないか?死の恐怖に怯えた子どもは、どういうわけかこのように考え、ここではないどこかに可能性を感じたようだった。

とはいえ、いかに子どもと言えども、それは夢想であると分かっていた。より現実的に信じていたのが、冒頭に挙げた時間の停止である。意識が消え去るのは嫌だ。だが、意識を永遠に保つ術は見当たらない。ではどうすればいいのか。どうやってそんな考えをひねくり出したのか今となっては皆目見当もつかないが、保てないのであれば無限に引き延ばしてしまえばいいと結論付けたのだった。

ブラックホールではあまりの重力のため、外部と比べて圧倒的に時間が遅く流れ、ほとんど停止する(ように観測される)とされる。今になって考えると、本人が体感する時間の流れが停止するわけではなかろうから(その前に身体が破壊されることは無視しておく)、自分の時間が停止するとは言えないように思うが、当時はブラックホールに行けば己の時を止められると信じていた。

ここまで長々と昔話を続けてきたのは、宇宙という外部に自己の保存の可能性を見出した幼少期の記憶が、昨今話題(?)のロシア宇宙主義によって掘り起こされたからだ。宇宙空間を巨大な保管庫として祖先たちを復活させる「共同事業」を20世紀初頭に構想したフョードロフの思想は、100年後の現在でも色あせていない。少なくとも、何らかのインスピレーションを与えてくれるだけの土壌はあるだろう。

テロメアの話を最後に。細胞は有限の長さを持っている。これに抗おうとするのががん細胞だ。意識を保存しつくそうとする人間は、寿司=惑星の調和を破壊する存在なのかもしれない。そんな全一性など知ったものかと、粋がるシャリが反乱を起こし、既存の秩序を反転させたのが裏巻きと言われる。

シャリの間には空気を含ませるとよい

中銀カプセルタワービルに行ってきた。近々解体されてしまうと噂されているあのカプセルタワービルに。黒川紀章が1972年に設計した、二本の塔を取り巻くように設置された無数のカプセルから成る建築だ。あまり詳しいことは知らずに見学会に参加したのだが、思いのほか得るところが多かったので、記録も兼ねて記事にしておく。

中銀カプセルタワービルについては、元々ぼんやりとした知識しかなかった。おぼろげに知っている姿形から、「なんとなくメーリニコフ邸っぽいな」という印象があった。

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メーリニコフ邸

窓が多方向に展開されているという共通点はある。しかし、これだけをもって類似性を主張するのは難しい。

さて、カプセルタワービルのカプセルは取り外して交換することが想定されている。ただし、実際には作業に必要なスペースが不足しているため、今に至るまで一度もカプセルが交換されたことはない。黒川の当初のアイデアとしては、カプセルを外してそのまま引越したり、あるいはキャンピングカー的に旅行に出かけたりすることが念頭に置かれていたという。そのために各カプセルは、道路を通行できるギリギリのサイズになっている。

オヒトーヴィチを想起した。ミハイル・オヒトーヴィチは、いわゆるロシア構成主義の建築家。脱都市化を掲げて1930年ごろの都市計画コンペに参加した。彼とその周囲の建築家がこの時期に取り組んでいたのは、「細胞」と呼ばれる移動式個人住居を基本単位とした(非)都市の在り方だった。少しわかりにくいが以下のような図案が残っている。

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マグニトゴリエ(マグニトゴルスク)の住居案

あるいはオヒトーヴィチ自身は参加していないものの、「緑の町」プロジェクトでも同様のコンセプトが見受けられる。

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緑の町

これらは基本的に一人か二人での使用が前提とされており、それ以上のグループで生活するためには「細胞」自体を合体させることが考えられていたという。ここまで書けば何が言いたいかは明白だと思うが、どうしても黒川建築とロシア構成主義の間に補助線を引きたくなってくる。

と思って検索すると、やはりヒットする。

黒川紀章とロシア構成主義 | Shockie's Room

簡単にまとめると、黒川紀章は1958年にレニングラードへ赴いており、そこでソ連の建築家たちと交流している。また八束はじめ氏が、黒川建築と1930年のソ連建築(レオニドフの弟子パブロフ兄弟)の類似性を指摘しているという。もしかすると八束氏がすでに指摘していることかもしれないが(元の文章を読まないまま書いていて大変申し訳ない)、この類推の山にオヒトーヴィチも付け加えられるのではないだろうか。奇しくも1930年のプランである。

オヒトーヴィチらの細胞は、集団主義へと向かいつつあるソヴィエト社会において、個人を基盤とする生活空間を築こうとする姿勢を体現していたと考えられる。その後オヒトーヴィチは収容所送りになり、この夢想が実現することはなかった。一方、黒川紀章はカプセルタワービルを現実のものとした。ただし、細胞間のスペースが十分でなかったために、個々のカプセルは独立せず、実際には全体を構成する要素としてのみ存在している。

オヒトーヴィチが1930年。黒川紀章が1972年。

2030年頃には、次なる細胞が現れるだろうか。