シャリの間には空気を含ませるとよい

中銀カプセルタワービルに行ってきた。近々解体されてしまうと噂されているあのカプセルタワービルに。黒川紀章が1972年に設計した、二本の塔を取り巻くように設置された無数のカプセルから成る建築だ。あまり詳しいことは知らずに見学会に参加したのだが、思いのほか得るところが多かったので、記録も兼ねて記事にしておく。

中銀カプセルタワービルについては、元々ぼんやりとした知識しかなかった。おぼろげに知っている姿形から、「なんとなくメーリニコフ邸っぽいな」という印象があった。

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メーリニコフ邸

窓が多方向に展開されているという共通点はある。しかし、これだけをもって類似性を主張するのは難しい。

さて、カプセルタワービルのカプセルは取り外して交換することが想定されている。ただし、実際には作業に必要なスペースが不足しているため、今に至るまで一度もカプセルが交換されたことはない。黒川の当初のアイデアとしては、カプセルを外してそのまま引越したり、あるいはキャンピングカー的に旅行に出かけたりすることが念頭に置かれていたという。そのために各カプセルは、道路を通行できるギリギリのサイズになっている。

オヒトーヴィチを想起した。ミハイル・オヒトーヴィチは、いわゆるロシア構成主義の建築家。脱都市化を掲げて1930年ごろの都市計画コンペに参加した。彼とその周囲の建築家がこの時期に取り組んでいたのは、「細胞」と呼ばれる移動式個人住居を基本単位とした(非)都市の在り方だった。少しわかりにくいが以下のような図案が残っている。

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マグニトゴリエ(マグニトゴルスク)の住居案

あるいはオヒトーヴィチ自身は参加していないものの、「緑の町」プロジェクトでも同様のコンセプトが見受けられる。

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緑の町

これらは基本的に一人か二人での使用が前提とされており、それ以上のグループで生活するためには「細胞」自体を合体させることが考えられていたという。ここまで書けば何が言いたいかは明白だと思うが、どうしても黒川建築とロシア構成主義の間に補助線を引きたくなってくる。

と思って検索すると、やはりヒットする。

黒川紀章とロシア構成主義 | Shockie's Room

簡単にまとめると、黒川紀章は1958年にレニングラードへ赴いており、そこでソ連の建築家たちと交流している。また八束はじめ氏が、黒川建築と1930年のソ連建築(レオニドフの弟子パブロフ兄弟)の類似性を指摘しているという。もしかすると八束氏がすでに指摘していることかもしれないが(元の文章を読まないまま書いていて大変申し訳ない)、この類推の山にオヒトーヴィチも付け加えられるのではないだろうか。奇しくも1930年のプランである。

オヒトーヴィチらの細胞は、集団主義へと向かいつつあるソヴィエト社会において、個人を基盤とする生活空間を築こうとする姿勢を体現していたと考えられる。その後オヒトーヴィチは収容所送りになり、この夢想が実現することはなかった。一方、黒川紀章はカプセルタワービルを現実のものとした。ただし、細胞間のスペースが十分でなかったために、個々のカプセルは独立せず、実際には全体を構成する要素としてのみ存在している。

オヒトーヴィチが1930年。黒川紀章が1972年。

2030年頃には、次なる細胞が現れるだろうか。