漬物石

画家が向かいに住む家で育った。ただひたすらに鶏(と花)を描いた人だという。だという、のは、彼の絵を実際に見たことはないから。向かいには画家が住んでいると聞き、しかし「画家」というものがどういう存在なのか、あまり理解せずに過ごしていたように思う。

接点も限りなく少なかった。言葉を交わしたのは2度ほど、それも道端で野球ごっこをして迷惑をかけた時だけだ。ボールが壁に当たったり(最悪だ)、屋上に入り込んでしまったために侵入したり(許しがたい)。もちろん見つからずに済むなんてことはなく、お叱りを受けた。ただ、それでこっぴどく怒られたという記憶が残っておらず、比較的紳士的に諭されたような気がする。親が代わりに怒られてきたのかもしれないし、記憶力がないという可能性も残りはするが。

いずれにしても、大人になるころには忘れる程度の優しさで対処してくれたことは、想像以上にありがたいことだったのではないか。そんなことは意識してこなかったが、画家という存在にマイナスイメージを抱かずに済んだことが、自分の人生に計り知れない影響を与えているに違いない。

画家に限らず、感情を爆発させずに主張を伝えられる人は稀有だろう。向かいに住んでいた画家は、そんな人徳のある人間だった(もちろん自分の与り知らぬところで暴君だった可能性はあり、それは子供に対する態度と両立しうる)が、彼の作品は爆発、あるいは煌めきを感じさせる筆致をその特徴としている。

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清原啓一雷鳥の出る空》

自分が大学に進んだころ、画家は亡くなった。上の絵は「アトリエに残された遺作展」に出展されたもの。富山県出身ということで、故郷を偲びながら雷鳥を描いたのかもしれない。彼が亡くなった後、大学二年次に突如として絵画に対する関心が芽生え、そこから今の研究へとつながっていくのだが、振り返ってみれば意味ありげな時期だったと言える。

このように人は自らの人生でさえ、あたかも他人がするように、要素をつなげて物語を作ろうとする。個人的にはそれと同程度まで、他人が作り上げた虚構を信じてもいいと考えている。

今もこの家には、小学生の時に作った魚の絵が飾ってある。作った、というのは、それが色紙を巻いた部分の集合体としての作品だからだ。今も昔も自分には画力がなく、そのため平面を盛り上がらせ、その隆起した紙のファクトゥーラで勝負するしかなかった。このファクトゥーラへの意志こそが、ロシア・アヴァンギャルドに対する関心を育んでいったと言ってもいい。

おこのみでもおまかせでも、いい。

ゆくらゆくら

久方ぶりに小説と呼べる小説を読んだ。多和田葉子の『地球にちりばめられて』。本屋で何かしらの引力を感じて手に取り、しかし購入には至らなかったのだが、後日どうにもあれを読まなければいけないのではという思いが募り、どうしようもなく読んだ。

絶賛の言葉で空間を埋め尽くしたいが、絶賛されて読みたくなる人間なんていない。褒め殺しとはよく言ったもので、傑作は腐りやすい。

寿司文学がある。多和田葉子は先輩である。この世に数少ない先輩だ。小説の数ほど先輩は少ない。己の道の先にたしかな先達の足跡があることが、これほど勇気づけられるものだと、そう素直に認められることが嬉しい。

寿司文学である。舞台は鮨屋。寿司を食べるとき、その美味しさを言葉にする必要がどれだけあるだろうか。言葉はどれほどのものを私たちの間に架けてくれるだろう。そうでなくても私たちは多くのものを共有しているというのに、隣にいるだけで。『地球にちりばめられて』の登場人物たちは、それでもなお、寿司を言葉にしようとする。黙っていることは簡単だし、それで多くの物事は通り過ぎていくにもかかわらず。

以上の内容は独自の解釈が入っているけど、このブログを多少なりとも面白いと思う人にとっては間違いなく読む価値があるはず。なんといってもユーモアがあるんだ。既刊の続編も楽しみです。知り合いならいつでも貸すので、どうぞよろしく。

地球にちりばめられて

地球にちりばめられて

 

 

 

 

Everyone can see your cards but you

ノドグロが出てくるとは思わなかった。最後から三番目、おそらくは勝負所と思われるタイミング。そろそろ中トロあたりでしょうかと思わせておいて、そんな通俗な期待を打ち砕くようなノドグロ、あるいはアカムツ。ここまで書いて、初めてマグロも目黒であり(由来は諸説ある)、寿司屋の大一番では黒が活躍するようだと気付く。回し寿司活が目黒に出店しているのもそういうことだろうか。

ノドグロだと感じる暇もなかった。マグロの場合、ものによるが、その油の中にも身の感触を感じることが多い。赤身は言うに及ばず、トロにしても魚の肉が明確に主張してくるものだろう。ノドグロもそうだと思っていた。身の感触がしっかりしている魚だと思っていた。

引っかかりがない。

油が弾け、すぐさま嚥下されていく。その素早さは花火を彷彿とさせると言ってよい。一瞬の閃光。ネオンをずっと眺めることは稀だが、花火の閃光は瞬間であるからこそ目を奪われるものに違いない。火花は本当にそのような華麗な姿を現していたのだろうか。残像はかすかに瞼に残っているが、その軌跡は実際の火花が辿ったものと同じだろうか。喉元に残る火花は追い切れないうちに素早く消え去ってしまう。

残るのは味覚の暗闇のみ。こうして喉黒という名前が理解された。

「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしているとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない――誰もって大人はだよ――僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ――つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっかから、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げてることは知ってるけどさ」

 

Untitled

小肌と新イカのシーズンが来た。九州は天草の新子が食べたくて、2年に1回ほど行く寿司屋でその2つだけ2貫ずつ握ってもらった。そういう旬を感じてくれる客が最高だねと言う大将は、どうやら自分のことを忘れたらしい。といっても、元々たまにしか行かないのだから、前回や前々回にしっかりと認識されていたという保証はない。あるいは、何かしらのエピソードを話せば思い出されるということもあるかもしれない。

思い出してほしい、というわけではない。かといって、顔を覚えてほしくないというわけでもない。店と客の関係性に関して、自分は常連になりたいタイプでもなければ、顔を覚えられた瞬間に行かなくなるタイプでもない。と、ここまで書いてわかった。忘れられるくらいでちょうどいい。私たちを結んでいるのは寿司でいい。

会話と物語が好きな人もいると思う。それを否定したい気持ちは一切ない。気さくな大将が産地を教えてくれたりするのも楽しいだろう。ただ忘我のためには、シャリとネタを噛み締める数秒間、あるいは数十秒間、全神経を口内に集中しなければならない。そうすることによって、いろんな光景が見える。民族の対立を抱えながらも四海同胞を掲げる近代人たちや狩猟に明け暮れる原始人たち。それらがシャリの一粒一粒のように凝縮され、ひとつに集って巨大なパノラマとなる。その時寿司屋は後景に退く。この体験を、寿司と呼んでいる。

急いで付け加えるならば、このモザイク状の光景の集合体が一枚の絵であるとして、それらは間違いなく連作となりえるだろう。寿司屋は枠として存在しうる。このように考えるのであれば、寿司が時間芸術であることは明白であるように思える。旬の概念は、その時々で美味しいものを食べるというだけでなく、寿司が時間感覚と密接に結び付いていることを示している。

明日はヨコハマトリエンナーレに行く。

士士士

「いくらが残っていては、たらこを食べてはいけない。たらこが残っているなら、いくらを食べてはいけない」

先人が残したというこの警句はあまりに有名だ。中高を通して教師たちが口を酸っぱくして言い続けてきたから、自分ですら諳んじることができる。だが正直なところ、彼らがなぜこの言葉にこだわるのか、ずっと理解できていなかった。もちろん先人が言おうとしたことはよくわかる。でもそれと実感とは別だ。周りのみんなも似たようなものだったと思う。

今さら言うまでもないことだが、この言葉が意味しているのは食べ合わせのことではない。部族の選択を重視せよと、生徒たちにわかりやすく伝えようとするものだ。成人の際に選んだ部族のトーテム以外には、極力目を向けずに生きていくという掟を内面化するための言葉だ。宗旨替えはできないことはないが、望ましいものではない。

それにしても、と誰もが感じる。なぜいくら族とたらこ族なのか。いくら族は非常に巨大な部族なので納得できるが、たらこ族はほとんど日の目を見ない、はぐれ者の集まりではないかと。もしかすると、大昔には人気のある部族だったのかもしれないが、少なくとも現在ではこの言葉の教育的効果が疑問視される原因になっている。

だが、教育というものが結果だけを意味するのでなければ、警句が一定以上の力を持つものであることは俺自身が証明できる。なぜなら自分こそが、ありえないと思われていたいくらとたらこ間の葛藤を体験しているのだから。初めてこの言葉を聞いた時には、まるで想像もしなかった状況だ。

高校を卒業して、魚卵大学に入った。能力としては猛禽大なんかも視野に入ったが、一見すると地味な魚卵大のほうが過ごしやすいように感じていた。手先の器用さを活かそうと思い、選んだのは彫刻学科。1-2年で基礎を学び、成人式を済ませてからは大いくら像制作研究室に配属された。

大きな不満があったわけではない。むしろ、当初は意欲に溢れていたように記憶している。そこから現実との齟齬に目を向けるまでに、10年近く経ってしまったというだけの話だ。大いくら像は部族を象徴するモニュメントで、その制作に携わることは名誉というほかない。そして、まさに名誉以外には何もないのだ。部族を選んだ頃の自分はその名誉こそを欲していた。名誉だけで生きていくには人間は脆すぎるという事実は、未来への希望で覆い尽くされていた。

おそらくは新たな大いくら像のコンペに優勝した頃だろう。俺の心には小さな綻びが生じ始めていた。以前は見向きもしなかったたらこが、急に輝きを帯びて見えるようになった。もちろんこれは、部族に対する重大な裏切り行為だ。大いくら像の制作者が、たらこに心を奪われるなど。その背徳感もあってか、日に日にたらこは魅力的になっていった。

何もせずにはいられなかった俺は、大いくら像の内部に、設計図にはない小さな空洞を設けた。自分だけの聖堂を、他人だけの象徴の中に埋め込む。皆の祈りが、たらこの形を模した空虚な中心に向けられる。この小さな反逆は、新たな大いくら像の建立に着手する度に続いた。

ある意味で、祈りは届いてしまった。たらこ族に対する世間の見方が変わったのだ。周囲のいくら族たちが、次々にたらこ族に宗旨替えをした。そんな時勢の中、俺はどうしてもたらこ族になる決心がつかなかった。それができるなら、もっと早くにしていただろう。大いくら像は大たらこ像になり、もはや制作に携わることもなくなった。

たらこ族になればすべて解決することはわかっている。しかし問題は、大いくら像が心のしこりとなって残っていることだ。空虚な中心を、数を増す大たらこ像と同一視することはできない。もちろん、大たらこ像のことは好きだ。ゆくゆくは制作に携わりたいと思っている。いくら族からの宗旨替えという経歴のために苦労はするだろうが、一からスタートするのも悪くはないだろう。だがそれは先の話だ。今は大いくら像をどうにかしなければならない。いくらが残っていては、たらこを食べてはいけないのだ。

どこかでこうなる時が来ることは予見していたのかもしれない。最も巨大な大いくら像を作るとき、しかるべき手順を踏めば人力でも像が解体できるように仕組んでおいた。深夜に無人の広場に向かうと、深呼吸をしてから解体作業を始めた。手間はかかったが、どうにか像を開くことに成功した。かつて講義で小耳に挟んだ、宝石で装飾した卵型の飾り物のように、像はぱっくりと左右に開いていった。

中心には何もなかった。空虚な中心をさらけ出そうとしていたのだから当たり前のことだ。その代わり、その空虚を覆う殻となる部分が、たらこというよりも蛇のような形状に激変していた。そこにあるのは当初作られたたらこ型のスペースではなく、像を縦に貫くような螺旋が浮かび上がっている。一瞬、蛇族の悪ふざけかと思ったが、このような大事業に他部族が入り込む隙はなかったはずだ。

ではこの蛇はなにか。言語化せずとも、答えは直観的に理解できた。少なくとも、それはトーテムではないのだ。己の認識を超えること。呪いを解くこと。空虚な蛇はすでに断ち切られてしまった。だから、ここから生まれてくるのは、まがい物に過ぎないのかもしれない。そんな予期すら混ぜ合わせること。己が吐いた猛毒を飲み干すこと。

蛇の溝をなぞる。そのうち、なぞる場所こそが溝であることがわかった。この攪拌が終わるまで、あと百億の祈りを。太陽。月。宝石。白い象。溝からそれらが、生まれてくるまで。

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ハイデラバードの夜風

言い伝えによると、その昔ニザーム家には、糖尿病を患っていたために、大好物のマトン・ビリヤーニーを、一日にスプーン2杯だけ食することを侍従医から許されていた藩王がおり、乗せ固められる最大量のビリヤーニーをスプーンに2杯だけ懸命に盛り、とても藩王とは思えないような作法で無我夢中で食したと言われる。

ビリヤニを食べると滝のように汗が流れ、その対処で手一杯になる。しばらく待つ。だいぶ待つ。汗の勢いが衰える。だが食べようと決めたんだった。手を付ける。一口で汗が戻ってくる。汗が止まらない。どうすることもできない。どうしてこんな状態になるのにビリヤニを食べに来るんだろう。でも美味しい。つらいけど美味しい。美味しいってそんなに大事なことか?とはいえ美味しい。汗がひどい。サンズイが干上がらない。すべて紙に吸収してもらおう。もう一休み。もう無理。やっぱり最後まで食べましょう。汗は終わらない。終わり。まだ終わらない。本当に終わり。本当はいつまでもやってこない。もうこんな事やめたい。いつまでもいつまでもビリヤニのことばかり考えてしまう。

そんなこともないだろう。ビリヤニ美味しいね。たまにでいいけど。それでグッド。もっと言えば、寿司は最近ほとんど食べていないけど、あるいは食べていてもそれを認識しないけれど、常に支えていてくれる。それは高級な寿司を食べることが出来る自分への満足などではない。

神経細胞は複製できない。とはいえ、自分がその都度ごとに死んでいっていることを認識するのは有用かもしれない。

エビ。スパイス。魚介。カレー。魚介。エビ。カレー。魚介。カレー。エビ。エビ。カレー。魚介。エビ。スパイス。エビ。カレー。もう本当にビリヤニじゃないんだと謳う。

 

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