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小肌と新イカのシーズンが来た。九州は天草の新子が食べたくて、2年に1回ほど行く寿司屋でその2つだけ2貫ずつ握ってもらった。そういう旬を感じてくれる客が最高だねと言う大将は、どうやら自分のことを忘れたらしい。といっても、元々たまにしか行かないのだから、前回や前々回にしっかりと認識されていたという保証はない。あるいは、何かしらのエピソードを話せば思い出されるということもあるかもしれない。

思い出してほしい、というわけではない。かといって、顔を覚えてほしくないというわけでもない。店と客の関係性に関して、自分は常連になりたいタイプでもなければ、顔を覚えられた瞬間に行かなくなるタイプでもない。と、ここまで書いてわかった。忘れられるくらいでちょうどいい。私たちを結んでいるのは寿司でいい。

会話と物語が好きな人もいると思う。それを否定したい気持ちは一切ない。気さくな大将が産地を教えてくれたりするのも楽しいだろう。ただ忘我のためには、シャリとネタを噛み締める数秒間、あるいは数十秒間、全神経を口内に集中しなければならない。そうすることによって、いろんな光景が見える。民族の対立を抱えながらも四海同胞を掲げる近代人たちや狩猟に明け暮れる原始人たち。それらがシャリの一粒一粒のように凝縮され、ひとつに集って巨大なパノラマとなる。その時寿司屋は後景に退く。この体験を、寿司と呼んでいる。

急いで付け加えるならば、このモザイク状の光景の集合体が一枚の絵であるとして、それらは間違いなく連作となりえるだろう。寿司屋は枠として存在しうる。このように考えるのであれば、寿司が時間芸術であることは明白であるように思える。旬の概念は、その時々で美味しいものを食べるというだけでなく、寿司が時間感覚と密接に結び付いていることを示している。

明日はヨコハマトリエンナーレに行く。