士士士

「いくらが残っていては、たらこを食べてはいけない。たらこが残っているなら、いくらを食べてはいけない」

先人が残したというこの警句はあまりに有名だ。中高を通して教師たちが口を酸っぱくして言い続けてきたから、自分ですら諳んじることができる。だが正直なところ、彼らがなぜこの言葉にこだわるのか、ずっと理解できていなかった。もちろん先人が言おうとしたことはよくわかる。でもそれと実感とは別だ。周りのみんなも似たようなものだったと思う。

今さら言うまでもないことだが、この言葉が意味しているのは食べ合わせのことではない。部族の選択を重視せよと、生徒たちにわかりやすく伝えようとするものだ。成人の際に選んだ部族のトーテム以外には、極力目を向けずに生きていくという掟を内面化するための言葉だ。宗旨替えはできないことはないが、望ましいものではない。

それにしても、と誰もが感じる。なぜいくら族とたらこ族なのか。いくら族は非常に巨大な部族なので納得できるが、たらこ族はほとんど日の目を見ない、はぐれ者の集まりではないかと。もしかすると、大昔には人気のある部族だったのかもしれないが、少なくとも現在ではこの言葉の教育的効果が疑問視される原因になっている。

だが、教育というものが結果だけを意味するのでなければ、警句が一定以上の力を持つものであることは俺自身が証明できる。なぜなら自分こそが、ありえないと思われていたいくらとたらこ間の葛藤を体験しているのだから。初めてこの言葉を聞いた時には、まるで想像もしなかった状況だ。

高校を卒業して、魚卵大学に入った。能力としては猛禽大なんかも視野に入ったが、一見すると地味な魚卵大のほうが過ごしやすいように感じていた。手先の器用さを活かそうと思い、選んだのは彫刻学科。1-2年で基礎を学び、成人式を済ませてからは大いくら像制作研究室に配属された。

大きな不満があったわけではない。むしろ、当初は意欲に溢れていたように記憶している。そこから現実との齟齬に目を向けるまでに、10年近く経ってしまったというだけの話だ。大いくら像は部族を象徴するモニュメントで、その制作に携わることは名誉というほかない。そして、まさに名誉以外には何もないのだ。部族を選んだ頃の自分はその名誉こそを欲していた。名誉だけで生きていくには人間は脆すぎるという事実は、未来への希望で覆い尽くされていた。

おそらくは新たな大いくら像のコンペに優勝した頃だろう。俺の心には小さな綻びが生じ始めていた。以前は見向きもしなかったたらこが、急に輝きを帯びて見えるようになった。もちろんこれは、部族に対する重大な裏切り行為だ。大いくら像の制作者が、たらこに心を奪われるなど。その背徳感もあってか、日に日にたらこは魅力的になっていった。

何もせずにはいられなかった俺は、大いくら像の内部に、設計図にはない小さな空洞を設けた。自分だけの聖堂を、他人だけの象徴の中に埋め込む。皆の祈りが、たらこの形を模した空虚な中心に向けられる。この小さな反逆は、新たな大いくら像の建立に着手する度に続いた。

ある意味で、祈りは届いてしまった。たらこ族に対する世間の見方が変わったのだ。周囲のいくら族たちが、次々にたらこ族に宗旨替えをした。そんな時勢の中、俺はどうしてもたらこ族になる決心がつかなかった。それができるなら、もっと早くにしていただろう。大いくら像は大たらこ像になり、もはや制作に携わることもなくなった。

たらこ族になればすべて解決することはわかっている。しかし問題は、大いくら像が心のしこりとなって残っていることだ。空虚な中心を、数を増す大たらこ像と同一視することはできない。もちろん、大たらこ像のことは好きだ。ゆくゆくは制作に携わりたいと思っている。いくら族からの宗旨替えという経歴のために苦労はするだろうが、一からスタートするのも悪くはないだろう。だがそれは先の話だ。今は大いくら像をどうにかしなければならない。いくらが残っていては、たらこを食べてはいけないのだ。

どこかでこうなる時が来ることは予見していたのかもしれない。最も巨大な大いくら像を作るとき、しかるべき手順を踏めば人力でも像が解体できるように仕組んでおいた。深夜に無人の広場に向かうと、深呼吸をしてから解体作業を始めた。手間はかかったが、どうにか像を開くことに成功した。かつて講義で小耳に挟んだ、宝石で装飾した卵型の飾り物のように、像はぱっくりと左右に開いていった。

中心には何もなかった。空虚な中心をさらけ出そうとしていたのだから当たり前のことだ。その代わり、その空虚を覆う殻となる部分が、たらこというよりも蛇のような形状に激変していた。そこにあるのは当初作られたたらこ型のスペースではなく、像を縦に貫くような螺旋が浮かび上がっている。一瞬、蛇族の悪ふざけかと思ったが、このような大事業に他部族が入り込む隙はなかったはずだ。

ではこの蛇はなにか。言語化せずとも、答えは直観的に理解できた。少なくとも、それはトーテムではないのだ。己の認識を超えること。呪いを解くこと。空虚な蛇はすでに断ち切られてしまった。だから、ここから生まれてくるのは、まがい物に過ぎないのかもしれない。そんな予期すら混ぜ合わせること。己が吐いた猛毒を飲み干すこと。

蛇の溝をなぞる。そのうち、なぞる場所こそが溝であることがわかった。この攪拌が終わるまで、あと百億の祈りを。太陽。月。宝石。白い象。溝からそれらが、生まれてくるまで。

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