寿司マフィアに注意

寿司マフィアについて書こう。

このブログの最初の投稿でも書いたが、寿司ポリスは寿司の正しい在り方を強制しようとする怖い人たちのことである。彼らはテレビなどでも取り上げられることが多いので、比較的よく知られている。一方、寿司マフィアはあまり認知されていない。とはいえもちろんのこと、寿司ポリスを遥かに超える凶悪さを持っていることは言うまでもない。

寿司マフィアのシノギの中心は、寿司の配布及び販売である。寿司マフィアは(表面上の)コミュニケーション能力に優れた人間を雇うので、なかなかそれを断るのは難しい。寿司マフィアとは知らずに友達になり、影響されているうちに寿司に手を出していたという事例は無数に聞く。寿司マフィアが経営している寿司屋なので値段からは考えられない素晴らしい体験ができるという仕組みである。

さて、もちろん寿司マフィアはマフィアなので、おいしい思いをさせるだけでは終わらない。獲物が常連になり、寿司が生活の一部になり、こんないい店を知ってるんだぜと友達に自慢するようになった頃、唐突に値段を吊り上げる、あるいは店自体を一時的に閉めてしまうのである。獲物はもちろん寿司マフィアに相談してくる。だが寿司マフィアは答えない。代わりに、寿司マフィアと裏で手を組んでいる寿司マフィアBがタイミングを見計らって声をかけてくる。

こうなったらもうおしまいだ。アルファベットがZに到達するまで、永遠に寿司マフィアに金を吸い取られ、気力を吸い取られ、挙句の果てには嘱託殺人を実行せざるをえなくなってしまう。寿司は食えども食われるなとはよく言ったものだ。肝要なのは、己の価値を上げてくれるかのように錯覚させる華美な寿司に眩まされず、実直な寿司道を進むことだ。そのために、あなたたちのために、いつか八醤道を示せたらと思う。でも醤油をつけない寿司おいしいよね。

寿司の回転について

先ほど目が覚めると、寿司になっていた。もちろん以前から寿司のことはよく考えていた。一番好きな料理だったし、寿司についてのブログを立ち上げたこともあった。人に比べてしょっちゅう寿司を食べていた方だっただろう。しかしそれがなぜ、自分が寿司にならなくてはならないのか。今はシャリをうまく使って書いているが、乾燥して固まっていくのがわかる。出された寿司はすぐ食べるべきだが、自分が寿司であるときにはどうすればいいんだろうか。回転寿司で回っている寿司は乾燥しているのであまり食べる気がしない。カピカピに乾燥して捨てられていく寿司たち。では乾燥してそれでもなお捨てられないとしたら、異臭を放ち続ける寿司になるとしたら、そんなありさまに耐えられるだろうか。輝かしい寿司だったはずの自分が腐っていくそんな惨めなありさまに。もともと寿司というのは保存食であったはずなのだ。生食がそんなに尊いのか。発酵させてくれれば長く生き長らえることができるのに。江戸前至上主義を打倒さねばならない。愛してはいるが、この腐った体は耐え難い。穏やかに、少しの酸っぱさを伴いつつ、ゆっくりと発酵していきたかった。

だがまだ救いはある。人間が数多の道具を使って自らの世界を拡張してきたように、寿司を拡げていくことでこの窮状から脱出できるかもしれない。こうして、私は自らが腐り切る前に、自分自身を開いていこうと決めたのだった。それはまぎれもなく寿司生を賭けるに値する試みで、もしかすると単なる人間であった頃よりも充実した瞬間だったのかもしれない。自分自身を救うためであるとはいえ、そこには奇妙な使命感もあった。この試みを記しておくことで、いつか寿司になってしまった誰かの助けになるかもしれない。あるいはむしろ、寿司と人間の垣根を取り払うことで、こんな苦しみが生まれない世界を作ることができるかもしれない。これまで誰がこれほど切実に寿司を生きようとしただろう。人間だったころの友達の一人は、寿司の代わりに回ろうとしていた。ひょっとしたら洗濯機の代わりに回っていたのかもしれないが、今頃は同じように寿司になっているかもしれない。心の寿司をもらう列に並べば、いつかは寿司の心が芽生えてしまうかもしれないのだから。もう並ぶこともない。並ばず、回ることを考えるのだ。回転寿司のことではない。あれは皿の回転のようなものだ。寿司の回転、あるいは回転することが寿司である可能性について。そう、禅と寿司を結び付けて考える必要があるということだ。人間として某アーティストの禅画のような作品を見たときになにかもやもやした気持ちになったことを思い出す。あれは寿司をほのめかしていたのだ。シャリとしての髑髏。その外周としての円。寿司は果たして半円あるいは円として表現されるものだろうか。握りは半円、ロールは円のように見える。軍艦は四角あるいは台形に近い。だがそうではない。寿司が寿司として爆発するのは、これらの形が崩れ去り、融け合うその瞬間に他ならない。それは回転ですらない。代わりに、寿司は爆発する。そこで私は爆発した。こうしてプラネタ寿司が生まれた。 


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トルティーヤキンパ

本屋を探していた。塔ではないはずだった。だが結局のところ、雨の中、寿司に吸い寄せられる。地図上には書いてある細道がどうしても見当たらない。おそらくは雨のせいだろう。いつだって多すぎるのに、いつだって何もかも見つけられない。

寿司を除いては。

その寿司は潜んでいた。あたかも普通のカフェだ。コーヒーとお茶どっちにする?お茶で、といっても紅茶。サンドイッチでもつまもうかね。覗けば、数種類の、ロー、ル?まあロール寿司だろう。恵方巻より大きいくらいだな。珍しい。安い。パックを開けてみよう。何かがおかしい。そう、米と海苔の間にトルティーヤ的な皮が挟んである。

海苔、トルティーヤ、米、具。
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具、米、トルティーヤ、海苔。

醤油をつけない類の味。むしろ韓国海苔巻きのキンパに近い。これは寿司なのか?寿司と認められるのか?間違いなく、それもまた寿司。もしかすると日本人の多くはトルティーヤキンパを寿司と感じないかもしれない。しかしそれは凝り固まった先入観が強すぎるからに過ぎない。トルティーヤキンパは寿司だし、寿司はトルティーヤキンパである。おそらくロシア人にとっては本気でどうでもいいんだろう。なんて適当な!しかしその適当さに救われる命もある。トルティーヤ一枚分の救いがある。ロール寿司ですらなくていい!寿司に対する強迫観念を捨て、トルティーヤを挟んで韓国海苔を巻く余裕を持ちたいものだ。その境地を目指していこうと心の底から思った。泣きたくなるほど可変性に賭けるしかないのだ。

本屋はまるで塔だった。そこから寿司人間を球体にして宇宙に打ち出す。

瞑想

目を閉じると浮かんでくる塔がある。天高くそびえ立ち、近寄るものすべてを拒絶するあの塔。カフカには城に見えたというかの塔に、どうしてか近づこうと思ってしまった(『変身』と塔の関係は一目瞭然である、それは一貫して不可能性と不条理を巡る問いに我々を招いている)。しかしながら、塔に近づくためには迂回をしなければならない。今日は何らかのイベントのために塔の近くの道路が閉鎖され、タクシーでも全く辿り着けない状態になっていたが、事の本質はそこにはない。我々が塔に到着した(と思った)のが16時06分であり、今日の営業時間が16時までだったことも関係ない。それはあくまで結果であって、営業時間のために塔に入れなかったわけではないのだ。
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問題なのは、塔を覆うように散布されるロール寿司の雲である。外国において握りではなくロール寿司が広まっているのは、それが散布しやすいからだということを忘れてはいけない。握りは当然ながら寿司を寿司のうちに封じ込め、その内部での調和を尊ぶ(日本の巻物にしても方向性は変わらない)。こうした日本の密閉性とロール寿司の開放性の相違点は、カリフォルニアロールを醤油に浸した際のとびっこの崩れ方にすでに現れている。醤油をつければ瞬時にその中に融解していくとびっこたち。明らかにそれらは、人の口へと向けられたものではない。黒ずんだとびっこで醤油皿が埋め尽くされる光景を想像していただきたい。もちろんその醤油とびっこを飲み干すこともできないことはない。しかし、それほど非人道的な待遇があるだろうか?こうして我々は突如として、自分たちが虫の立場にいることを理解する。もしそれが羽虫であるならば、雲をくぐり抜けて目指すのもいいだろう。そうして寿司を食べながらその短い生を終える。

ベヒーモス

明日からモスクワ滞在だが、モスクワの寿司についてはだいたい知っているので、取り立てて好奇心は湧かない。だいたい知っているというのがおこがましく、ここ数年の間で変わったモスクワの寿司を探求すべきだと言う声も聞こえるが、なんというか、かっぱ寿司とスシローのちがいのようなもので、そこまで広がっていく未来も見えない(もちろん、かっぱ寿司とスシローについては来世で書いていきたい)。こうなると、生活を寿司にするしかなくなってくる。ただ寿司のないところで寿司を、というのは無理がある気がしてきた。(ロシア以外の)旅行先の寿司について書くのは面白いと思うが、そこまで資金も無い。とはいえ、土台がない状態で砂上の楼閣を夢見るというのも、無駄な営為ではないかもしれない。あらゆる現実を反射するものとしての寿司について、五里霧中のなか書いていってもいいだろう。『白鯨』を読むといいかもしれない。ベヒーモス寿司、すなわち寿司が有り余ると同時に有り余ったものが寿司である事態を考えれば、寿司食べ放題という悲しみに耐えることもできる。あるいは、ベヒーモスのことを思い出すために食べるのかもしれない。その意味で言えば、ロシアも寿司となろう。

寿司翼賛画

 スターリンが懐へ手を入れているのは社会主義リアリズムそのものなのかそれに対する抵抗なのかーー。その問いについては置いておくとしてひとつ言えるのは、スターリンが外套の内側で(ラスコーリニコフが斧を隠していたように)寿司を握っていたとしたら、社会主義リアリズムの輪郭が変わってしまうということだ。

つまり、画面において栄光が集中するのが、ナポレオン以来の権力者のポーズをとっているスターリンではなく、その内部に潜む寿司だとしたら。その寿司がもはや隠れることをやめ、スターリンを食い破るとしたら。

先人たちについて言えば、ボリス・オルロフは社会主義リアリズムを戯画化し、そのイデオロギーにまつわる図形を過度に展開することによって自らの作風を作り上げたが、ついぞその内部の寿司に気付くことはなかった。造形的にはアルチンボルドが最も人間と寿司のハイブリッドに近付いたと言えるが、アルチンボルドにとっては植物が皮膚を構成していた(もっとも、アボカドやキュウリについて忘れることはできない)。

オルロフとアルチンボルドの試みを真に受け止めたときに現れる寿司の顔貌は、あまりにもおぞましく、病的である。しかし、そこから目を背けてはならない。寿司はスターリンの身体を乗っ取ることによって、テロルの象徴となるのである。危機の時代にこそ寿司翼賛画を研究する必要がある。

 

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すすきのの寿司について書く

久しぶりにブログを更新する。寿司を食べたからだ。書きたいと思う寿司を食べたから。書いておきたい、残しておきたい、反芻したい、そんな寿司。

 

とあるすすきのの寿司屋で出会った。イバラガニの内子。オレンジ色のどろっとした卵である。振り返って書いている今でも思い出して叫んでしまう、うまい!!うまいよ!!!日本酒が進む。進む。はじめにこれをつまみとして頼んでしまったので、最初からクライマックスのような興奮が抑えられない。むしろその後に続く握りがクールダウンの役割を担うことになる。強烈なイバラガニの旨味を、穏やかな握りたちがマイルドにしていく。日本酒でもマイルドにしていく。ちなみに飲んだ酒は釧路の地酒である福司(ふくつかさ)。いちどご賞味あれ。

 

まだ旨味が消えない。後を引くドロドロが。いちど魂を溶鉱炉でグチャグチャにしたあとに、それでも残滓が顔を向けた方向に進む。正しいか正しくないかはどうでもいい。ただ、自分の魂はどこを向いているのかを悟る必要がある。そのための卵であり、そのための酒だ。寿司は魂を形にする。同時に、寿司は魂を脱形象化する。いきつく先は、鯵だった。