ベヒーモス

明日からモスクワ滞在だが、モスクワの寿司についてはだいたい知っているので、取り立てて好奇心は湧かない。だいたい知っているというのがおこがましく、ここ数年の間で変わったモスクワの寿司を探求すべきだと言う声も聞こえるが、なんというか、かっぱ寿司とスシローのちがいのようなもので、そこまで広がっていく未来も見えない(もちろん、かっぱ寿司とスシローについては来世で書いていきたい)。こうなると、生活を寿司にするしかなくなってくる。ただ寿司のないところで寿司を、というのは無理がある気がしてきた。(ロシア以外の)旅行先の寿司について書くのは面白いと思うが、そこまで資金も無い。とはいえ、土台がない状態で砂上の楼閣を夢見るというのも、無駄な営為ではないかもしれない。あらゆる現実を反射するものとしての寿司について、五里霧中のなか書いていってもいいだろう。『白鯨』を読むといいかもしれない。ベヒーモス寿司、すなわち寿司が有り余ると同時に有り余ったものが寿司である事態を考えれば、寿司食べ放題という悲しみに耐えることもできる。あるいは、ベヒーモスのことを思い出すために食べるのかもしれない。その意味で言えば、ロシアも寿司となろう。