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寿司サウナで健康になるための

弱点がある。あるいは未発達の部分。

この間友達と寿司の話をしていたとき、なにげなく「稲荷寿司はどうなの?」と聞かれ、言葉に詰まってしまった。日ごろヘラヘラしながら生きているが、寿司については噓をつきたくない。正直に言った、稲荷寿司(とガリ)が実は苦手なんだと。それが自分にとっての鬼門なんだと。結局のところ稲荷寿司は、ほとんど毎回どこかで触れている「甘い寿司」のひとつだ。いつかは決着をつけないといけない。だがやつを否定することは、そのまま自分を否定することにつながってしまう予感がしていた。

バレンタインには肉寿司をもらいたい。肉寿司は認められる気がする。魚でない寿司があってもいいだろう。では油揚げは。油揚げを認めることができないのか。それとも甘めのシャリを認めることができないのか。本当にそれでいいのだろうか。甘さこそが今の自分の寿司道に立ちふさがる課題だと思った。屹立するマッターホルンのような鋭さの寿司と、全てを包み込む南の海のような寿司。甘さに、温かさに、抱かれることを怖れているのではないか。甘い寿司を受け止めないことには人間関係も前に進めない。そう直感していた。

銀座にある吉宗(よっそう)は、1866年創業の長崎の郷土料理屋です。ちゃんぽんや皿うどん、それに鯨料理などを出していますが、創業当時から続く看板メニューは茶碗蒸しと蒸し寿司を、同じ大きさの二つの茶碗に入れた「夫婦蒸し」。蒸し寿司にのっているのはあなごのかば焼き、海老おぼろ、錦糸卵です。

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茶碗蒸しについては特に申し上げることはありません。茶碗蒸し、わりと苦手なんですよね。ただ色々な具(たしか10種類)が入っていてそれはよかったと思います。ほとんどスープみたいなものでした。

さて、蒸し寿司。いつものように、密林とか四海同胞とか、そういうイメージは湧いてきませんでしたが、際立った驚きがないにも関わらず、箸は進む。気付いた時には手遅れになっているマフィアの手法のように、穏やかな味わいがありました。もしかしたらそれもまた幸せの形なのかもしれない。満面の笑みにならずとも共存はできる、受け入れではなく受け止め、そのような、対峙のあり方で。酢は蒸すことで柔らかい味わいに変化するそうです。蒸し寿司の柔らかさと接することで、屹立する寿司に接する際の味わいもまた変化することと思われます。〆ではなく蒸し。この知見を活かしていけるような人生を歩みたい。

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