トルティーヤキンパ

本屋を探していた。塔ではないはずだった。だが結局のところ、雨の中、寿司に吸い寄せられる。地図上には書いてある細道がどうしても見当たらない。おそらくは雨のせいだろう。いつだって多すぎるのに、いつだって何もかも見つけられない。

寿司を除いては。

その寿司は潜んでいた。あたかも普通のカフェだ。コーヒーとお茶どっちにする?お茶で、といっても紅茶。サンドイッチでもつまもうかね。覗けば、数種類の、ロー、ル?まあロール寿司だろう。恵方巻より大きいくらいだな。珍しい。安い。パックを開けてみよう。何かがおかしい。そう、米と海苔の間にトルティーヤ的な皮が挟んである。

海苔、トルティーヤ、米、具。
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具、米、トルティーヤ、海苔。

醤油をつけない類の味。むしろ韓国海苔巻きのキンパに近い。これは寿司なのか?寿司と認められるのか?間違いなく、それもまた寿司。もしかすると日本人の多くはトルティーヤキンパを寿司と感じないかもしれない。しかしそれは凝り固まった先入観が強すぎるからに過ぎない。トルティーヤキンパは寿司だし、寿司はトルティーヤキンパである。おそらくロシア人にとっては本気でどうでもいいんだろう。なんて適当な!しかしその適当さに救われる命もある。トルティーヤ一枚分の救いがある。ロール寿司ですらなくていい!寿司に対する強迫観念を捨て、トルティーヤを挟んで韓国海苔を巻く余裕を持ちたいものだ。その境地を目指していこうと心の底から思った。泣きたくなるほど可変性に賭けるしかないのだ。

本屋はまるで塔だった。そこから寿司人間を球体にして宇宙に打ち出す。

瞑想

目を閉じると浮かんでくる塔がある。天高くそびえ立ち、近寄るものすべてを拒絶するあの塔。カフカには城に見えたというかの塔に、どうしてか近づこうと思ってしまった(『変身』と塔の関係は一目瞭然である、それは一貫して不可能性と不条理を巡る問いに我々を招いている)。しかしながら、塔に近づくためには迂回をしなければならない。今日は何らかのイベントのために塔の近くの道路が閉鎖され、タクシーでも全く辿り着けない状態になっていたが、事の本質はそこにはない。我々が塔に到着した(と思った)のが16時06分であり、今日の営業時間が16時までだったことも関係ない。それはあくまで結果であって、営業時間のために塔に入れなかったわけではないのだ。
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問題なのは、塔を覆うように散布されるロール寿司の雲である。外国において握りではなくロール寿司が広まっているのは、それが散布しやすいからだということを忘れてはいけない。握りは当然ながら寿司を寿司のうちに封じ込め、その内部での調和を尊ぶ(日本の巻物にしても方向性は変わらない)。こうした日本の密閉性とロール寿司の開放性の相違点は、カリフォルニアロールを醤油に浸した際のとびっこの崩れ方にすでに現れている。醤油をつければ瞬時にその中に融解していくとびっこたち。明らかにそれらは、人の口へと向けられたものではない。黒ずんだとびっこで醤油皿が埋め尽くされる光景を想像していただきたい。もちろんその醤油とびっこを飲み干すこともできないことはない。しかし、それほど非人道的な待遇があるだろうか?こうして我々は突如として、自分たちが虫の立場にいることを理解する。もしそれが羽虫であるならば、雲をくぐり抜けて目指すのもいいだろう。そうして寿司を食べながらその短い生を終える。

ベヒーモス

明日からモスクワ滞在だが、モスクワの寿司についてはだいたい知っているので、取り立てて好奇心は湧かない。だいたい知っているというのがおこがましく、ここ数年の間で変わったモスクワの寿司を探求すべきだと言う声も聞こえるが、なんというか、かっぱ寿司とスシローのちがいのようなもので、そこまで広がっていく未来も見えない(もちろん、かっぱ寿司とスシローについては来世で書いていきたい)。こうなると、生活を寿司にするしかなくなってくる。ただ寿司のないところで寿司を、というのは無理がある気がしてきた。(ロシア以外の)旅行先の寿司について書くのは面白いと思うが、そこまで資金も無い。とはいえ、土台がない状態で砂上の楼閣を夢見るというのも、無駄な営為ではないかもしれない。あらゆる現実を反射するものとしての寿司について、五里霧中のなか書いていってもいいだろう。『白鯨』を読むといいかもしれない。ベヒーモス寿司、すなわち寿司が有り余ると同時に有り余ったものが寿司である事態を考えれば、寿司食べ放題という悲しみに耐えることもできる。あるいは、ベヒーモスのことを思い出すために食べるのかもしれない。その意味で言えば、ロシアも寿司となろう。

寿司翼賛画

 スターリンが懐へ手を入れているのは社会主義リアリズムそのものなのかそれに対する抵抗なのかーー。その問いについては置いておくとしてひとつ言えるのは、スターリンが外套の内側で(ラスコーリニコフが斧を隠していたように)寿司を握っていたとしたら、社会主義リアリズムの輪郭が変わってしまうということだ。

つまり、画面において栄光が集中するのが、ナポレオン以来の権力者のポーズをとっているスターリンではなく、その内部に潜む寿司だとしたら。その寿司がもはや隠れることをやめ、スターリンを食い破るとしたら。

先人たちについて言えば、ボリス・オルロフは社会主義リアリズムを戯画化し、そのイデオロギーにまつわる図形を過度に展開することによって自らの作風を作り上げたが、ついぞその内部の寿司に気付くことはなかった。造形的にはアルチンボルドが最も人間と寿司のハイブリッドに近付いたと言えるが、アルチンボルドにとっては植物が皮膚を構成していた(もっとも、アボカドやキュウリについて忘れることはできない)。

オルロフとアルチンボルドの試みを真に受け止めたときに現れる寿司の顔貌は、あまりにもおぞましく、病的である。しかし、そこから目を背けてはならない。寿司はスターリンの身体を乗っ取ることによって、テロルの象徴となるのである。危機の時代にこそ寿司翼賛画を研究する必要がある。

 

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すすきのの寿司について書く

久しぶりにブログを更新する。寿司を食べたからだ。書きたいと思う寿司を食べたから。書いておきたい、残しておきたい、反芻したい、そんな寿司。

 

とあるすすきのの寿司屋で出会った。イバラガニの内子。オレンジ色のどろっとした卵である。振り返って書いている今でも思い出して叫んでしまう、うまい!!うまいよ!!!日本酒が進む。進む。はじめにこれをつまみとして頼んでしまったので、最初からクライマックスのような興奮が抑えられない。むしろその後に続く握りがクールダウンの役割を担うことになる。強烈なイバラガニの旨味を、穏やかな握りたちがマイルドにしていく。日本酒でもマイルドにしていく。ちなみに飲んだ酒は釧路の地酒である福司(ふくつかさ)。いちどご賞味あれ。

 

まだ旨味が消えない。後を引くドロドロが。いちど魂を溶鉱炉でグチャグチャにしたあとに、それでも残滓が顔を向けた方向に進む。正しいか正しくないかはどうでもいい。ただ、自分の魂はどこを向いているのかを悟る必要がある。そのための卵であり、そのための酒だ。寿司は魂を形にする。同時に、寿司は魂を脱形象化する。いきつく先は、鯵だった。

A.Y.U.

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去るという優しさもある。心中するのがベストなわけはない。射幸心は人を殺す。

そんなことを考えず、淡々とただ流れていくものがある。

鮎は味がないと言う人がいる。人生に刺激がないと言う人がいる。

清流。川辺に佇めば近くの家からDIYの音が聞こえてくるだろう。

寿司は時にお前がやれと語りかける。別に寿司を握る必要はないけれど。

 

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寿司戦争

ミズタニは油断していた。

ジロウの能力を甘く見ていたのだ。もちろんそれは、90歳という高齢に加えて、普段は部下に任せて自分は戦わないため、腕がなまっているだろうという甘い憶測によるものだった。

ジロウが攻略不可能と言われたダンジョン「スキヤバシ」を攻略し、そのままそこに部下と共に棲みついてから数十年。もはや実戦の勘など働かないだろうという思い込みが、ミズタニの命を危険に晒していた。

無論、ミズタニとて生半可な寿司者ではない。「スキヤバシ」ほど絶望的な深度ではないが、同じくS級認定されているダンジョン「シンバシ」にて迫りくるサラリーマンゾンビ1万匹を一握りで成仏させた逸話はあまりにも有名である。ミズタニの秘寿司「サヨリノコブジメ」は、触れるものすべてを爽やかに切り裂き、それを喰らった敵は涙しながら消えていったという。

なのに。数ある秘寿司の中からジロウが出してきた「エビ」には、触れることすら叶わない。ミズタニは驚愕した。「エビ」が基本中の基本の寿司だったからだ。ギルドに入りたての寿司者が、野生のファーストフード霊を倒すときの常套手段と言っても過言でないのが「エビ」だった。もちろんミズタニも「エビ」を握ることなど造作もない。

だが、ジロウの「エビ」は異様だった。それはあまりに大きかった。いや、実体化しているのはジロウの手のひらに乗ったこじんまりとしたサイズの握りに過ぎないのだが、それは「エビ」の核とも言うべき部分であり、イマジナリースシの領域を含めれば、車ほどの大きさにも見えた。より正確に言えば、ミズタニの目では「エビ」がどこまで広がっているのか、捉えることが出来ていない。

サヨリノコブジメ」が爽やかさで切り込もうとしても、どこまでが実体かもわからないような「エビ」のずっしりとした重圧の前に沈黙させられてしまうのだ。「サヨリノコブジメ」はその爽やかさと引き換えに、長時間攻撃を行うことができない。ゆえに一発で仕留めるつもりでやってきたのだが、完全にそれが裏目に出た。全てを吸い込む、「エビ」の厚み。

その時、突如として「エビ」の圧が消えた。ジロウが寿司を消したのだ。ミズタニは目を疑った。この寿司戦争において、寿司を解除するなど致命的。相手の寿司に瞬殺されるのは目に見えている。だが、現に目の前のジロウは寿司を消したではないか。

ミズタニの疑問はすぐに解決されることになる。

ジロウは寿司を消したのではなかった。「食べた」のだ。寿司者にとって、自らの武器である寿司を喰うことは、自殺に近い行為とみなされていた。というより、それを握り、喰らわせることに慣れるがあまり、「食べる」という選択肢を思いつかないのが現状だった。

ミズタニはジロウが寿司を食べたことに気付くと、すぐさま「サヨリノコブジメ」を締め直し、切り込もうとした。

だが、彼の指はいっさい動かない。

「エビ」がそこにいた。

ミズタニが握ろうとしていた「サヨリノコブジメ」はどこかに消え、代わりに現れたのは先ほどまでジロウが握っていた「エビ」。ミズタニは困惑する。だが、ジロウの寿司が手に入ったのなら、これで奴を攻撃することができる。

そう思った瞬間、ミズタニは「エビ」に覆われた世界を見た。

電柱、道路、マンション、コンビニ。「スキヤバシ」の構成物すべてを覆い尽くすように、「エビ」が繁茂していた。

その中心にジロウが位置していることは直感的にわかったが、もはや「エビ」に覆われたミズタニが彼を見ることはなかった。

ミズタニ、閉店。

意識を失いモンスターと化したジロウは、今も「スキヤバシ」の深奥で「エビ」を作り続けているという。

 

※この作品はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。ただ鮨水谷は閉店したらしいです。お疲れ様でした。