ハイデラバードの夜風

言い伝えによると、その昔ニザーム家には、糖尿病を患っていたために、大好物のマトン・ビリヤーニーを、一日にスプーン2杯だけ食することを侍従医から許されていた藩王がおり、乗せ固められる最大量のビリヤーニーをスプーンに2杯だけ懸命に盛り、とても藩王とは思えないような作法で無我夢中で食したと言われる。

ビリヤニを食べると滝のように汗が流れ、その対処で手一杯になる。しばらく待つ。だいぶ待つ。汗の勢いが衰える。だが食べようと決めたんだった。手を付ける。一口で汗が戻ってくる。汗が止まらない。どうすることもできない。どうしてこんな状態になるのにビリヤニを食べに来るんだろう。でも美味しい。つらいけど美味しい。美味しいってそんなに大事なことか?とはいえ美味しい。汗がひどい。サンズイが干上がらない。すべて紙に吸収してもらおう。もう一休み。もう無理。やっぱり最後まで食べましょう。汗は終わらない。終わり。まだ終わらない。本当に終わり。本当はいつまでもやってこない。もうこんな事やめたい。いつまでもいつまでもビリヤニのことばかり考えてしまう。

そんなこともないだろう。ビリヤニ美味しいね。たまにでいいけど。それでグッド。もっと言えば、寿司は最近ほとんど食べていないけど、あるいは食べていてもそれを認識しないけれど、常に支えていてくれる。それは高級な寿司を食べることが出来る自分への満足などではない。

神経細胞は複製できない。とはいえ、自分がその都度ごとに死んでいっていることを認識するのは有用かもしれない。

エビ。スパイス。魚介。カレー。魚介。エビ。カレー。魚介。カレー。エビ。エビ。カレー。魚介。エビ。スパイス。エビ。カレー。もう本当にビリヤニじゃないんだと謳う。

 

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ビリヤニ太郎

ビリヤニを食べたら「ビリヤニ太郎とか許せねえよな」という声が聞こえてきた。ビリヤニ太郎といえばビリヤニ界では知らない人はいないだろうが、ここはビリヤニ界ではないので説明しておくとビリヤニを日本に定着させようとがんばっている御人だ。なんせビリヤニ太郎である。自分ですら寿司太郎のような直接的な名前はさすがに名乗れない。ひとつの世界を背負って立つ。その意気込みがひしひしと伝わってくる。

ただ、ビリヤニ太郎を許せない人もまた、ビリヤニ界ではものすごい神的な存在である可能性はある。ちょうどますのすし界隈で源がよく知られているが、源を食べてますのすしを知った気にならないでほしい、まつかわとかも食べてほしいと思うようなものだ。とりあえず富山に行ったらまつかわのますのすしを食べてほしい。喧嘩をしている時に食べると嘘のように機嫌が直るから。実話です。その節はすみませんでした。

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まあしかし、ビリヤニ太郎が許せない人もビリヤニのことがきっと好きでしょうがないんだろう。とはいえ好きというハッピーな感情がいつのまにか許せないというアンハッピーな状態に変化してしまっているのは悲しいことだ。本人としては俺は分かってる的な快があるのかもしれないが、凝り固まった嗜好は友達を無くしそうでひやひやする。

回転寿司で炙りを推していたので物は試しと思って炙り鯖を食べた。自らの主義主張に反する行為である。結果としては、RPGの呪いのように喉から無限に炙り鯖の匂いが上ってくることになった。だがこれは炙り鯖のメッセージかもしれない。自分の殻を破るため、炙り鯖を受け入れるための旅に出ようと思う。ひとまずアラジンかなんかを見ます。

Not for me

焼きマフィアに村を焼かれた。北斗の拳の雑魚キャラをイメージしてもらえばいいと思う。回転寿司の炙りネタの野蛮さをよく示している。もちろん野蛮さを批判したいわけではない。ところでモスクワの寿司屋ではロール寿司を天ぷらのように揚げたものを見かけたが、炙りスタイルは世界に通用しないのだろうか。通用しないでほしい。揚げて揚げて、揚げに揚げてほしい。テンプラロールは油の味がしました。

炙りとテンプラロールの存在は、寿司をトーテムとする部族が一枚岩でないことを示している。というよりも正確に言えば、寿司の神話は単一にして絶対なのではなく、生ものと火を通したもの、あるいは生ものと腐ったものというありふれた軸の上を彷徨っている。

これほどハレの日と結びつけられるにもかかわらず、いまだ寿司の神話は紡ぎ出されていない。というよりも、それが神話であると認識することが妨げられていると言ってよい。わたしは寿司を食べていない期間のことを意識しようと思いつつ生きているが(詳しくは「3月ときどき日記」を参照)、このように自らの寿司を書きとめる営みもまた、寿司を神話化する道のひとつだろう。

もちろん神話化とは、安直な神聖化のことではまったくない。生きるための神話である。誰がなんと言おうと、このブログは寿司によって生きるために書かれているからして。

3月ときどき日記

3月3日。ひなまつり。宅配寿司を食べた。

 

3月16日。サバの棒寿司を食べた。

 

3月21日。春分の日。寿司を食べなかった。

 

3月23日。最終講義。寿司を食べなかった。

 

3月27日。寿司を食べなかった。

 

3月31日。寿司を食べなかった。

 

寿司を食べなかった。

 

寿司を食べなかった。

 

富める者には美味を、貧しい者には空腹を与える。そのような単純な寿司は「幼児の寿司」である。もし寿司がその威徳にふさわしいものであるなら、必ずや「寿司抜きで公正と平安をもたらすことができる存在」へと人間を導いてくれるはずである。スシスシレマサバクタニと嘆きつつ、寿司に従って歩め。

寿司カレンダー

お久しぶりです。そんなに久しぶりでもない?いやー、でも半年近くは経ってるんじゃない?この年になったら一年に一度でも会うことがあればそれは親友ですよ。頻度とか関係ないって。そういうの、大事にしていきたい。あんまり会うのも彼司に悪いかもしんないし。あれ、ってか彼司いるんだっけ?

 

彼司ですか?もちろんいますよ。仕事はトリ貝をやってます。あー、たしかにちょっとマイナーかもしれないですね。派手ではないけど一定数ファンはいるみたいですよ。実はわたしはよくわかってないんですけど。その点大トロさんはすごいですよね、まさに脂が乗ってるっていうか。

 

いやそんなことないって(笑)

まあ脂は出てるのかもしれないけど、俺自身はそんなに気にしてないっていうか。むしろシャリでどうにかしようと努力してる人ってほんとにすごいと思う。真似できないよ。あ、あんきもちゃんのこと悪く言ってるわけじゃないよ!あんきもちゃんはもうさ、シャリとかそういうの関係ないじゃん。実際女の子にはシャリ別にいらないと思うんだよねー。結婚したら軍艦に入ってほしいっていうかさ。まーちょっと個性強いから、寿司屋では避けられることもあるかもだけど、俺はむしろ歓迎かな。危険そうな雰囲気にかえって惹かれるっていうか。大トロとあんきも、個性が強い同士相性よさそうじゃない?(笑)あ、もうネタケース帰る?でもあんきもちゃん明日の朝仕込まれる予定とかないんじゃない?あるとしてもポン酢かけられるだけでしょ。朝まで行けるっしょ(笑)

 

っていうくらい、大トロはくどいかなーって思うことあります。あんきもは痛風に悪いのでおいしそうでも我慢だよ。

寿司密室

寿司マフィア。寿司マフィン。寿司マクガフィン。寿司ミッフィー。寿司ミシシッピ。寿司マンソン。寿司マッサー。寿司マザファッカー。寿司マザー。寿司マッシュ。寿司マゾ。

今回は寿司密室についての話である。

世の中には二人の人物が放り込まれ、どうにかならないと出られない部屋というものが存在するらしい。人類は進化の果てに、肥沃な土地ではなく閉ざされた小部屋を求めるようになった。だが結局は拡大再生産に尽きる。尽きると見せかけて実はそのプロセスに永遠が詰まっていたりする。

寿司密室もそうだ。そこでは、寿司を食べるまで外に出ることができない。だが、外に出てどうなるものでもない。というよりも、実際に外について考えられることはほぼない。なぜならそこに寿司がないから。寿司のない世界にも何かの意味がきっとあって——という風に考えの軸を移していくことになるわけだ。

誰もが寿司密室に生きている。その解を見つけられた人間はほとんどいないし、寿司密室のことを知らずに幽閉されているケースも多い。ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアは、寿司密室を発見した先駆的な人物であった。ペソアは書いている。「海に人格はない/米粒とバカリャウは網膜と一体化し/われわれの外の世界を映すことはない/無数に分裂していくなかで/互いが出会うその時までは」。

ペソアの詩は、人格の問いのなかに寿司密室に対する答えのひとつが潜んでいることを教えてくれる。だが当然ながらそのことを知るだけでは不十分で、実践が不可欠である。密室ごと逍遥するような、変化を恐れない姿勢が求められている。