ポールスミススシ(1)

ポールスミスでスシが振る舞われるという。それもロッポンギで。言うまでもなく、これは歴史的出来事だ。なにせ、僕らは奪われてきたのだから。ロッポンギと言えば過去には繁華街として栄えたが、寿暦28年の敗戦の際にスシ禁止令が議決された場所だ。それ以来、僕らは我が国の象徴であるスシを掲げることが出来なくなった。今こうしてこのポールスミススシについて書くことが出来るのも、この原稿が外国人の友人によって公開される予定だからだ。そうじゃなければとても、名前すら出せない、寿司なんて。

禁止令の公布からもう何十年経ったのか。この国はハチャプリ帝国に染まりに染まり、僕らは徐々にスシのことを忘れ始めている。「マグロ」や「サーモン」が赤い色をしたスシであることは古い雑誌を紐解けばわかるのだが、その味の違いについては老人たちに聞いても腑に落ちない。食べたことがないのだから、当たり前といえば当たり前なのだけど。そもそも、禁止令の存在を知っている人自体がほぼいないのだ。若者たちは、「スシ」と聞いてもせいぜい具と形の違うハチャプリくらいに思うだろう。それくらい、僕らの想像力はチーズとパンに侵されている。

僕がスシについて調べ、外国のスシ団体とひそかに連絡を取るようになったのは、大学時代の恩師がきっかけだった。大学で文学部に進んだ僕は、圧倒的大多数の学生たちと同じように、何も考えずにハチャプリ文学科に入った。何はともあれハチャプリ様様というわけだけど、実際のところ、ハチャプリを崇拝していたわけでもなかった。ただ目に入りやすい選択肢だっただけだ。ハチャプリ文学を学ぶのは悪くなかった。国民詩人であるアジャルスキーの『ブルーチーズの騎士』は、それを教えてくれた教授の愉快な人柄もあったのかもしれないけど、実に面白く、「突風」というイメージに注目することでハチャプリ帝国のダイナミクスを感じることが出来た。まあだから、つまるところ僕はそこまでハチャプリを憎んでいるわけではない。というか、ハチャプリ文学を学んだからこそ、スシへの道が開けたとすら言ってもいい。

話を戻そう。そう、アジャルスキーのその教授とは別の―—念のため専門は伏せておく―—教授のゼミに出ていた頃。そのゼミは人数が少なく、自分を入れて3人しかいなかったのだけど、偶然にも残りの2人が病欠した日があった。ユーモラスなある作品の講読で、その日は町中のハチャプリがひとりでに歩き、いっせいに消え去ってしまうというシーンだった。僕は言った、何気なく。

「ハチャプリが無くなってしまったら、今度は別の郷土料理を作らなくちゃいけないですね。まあ結局はパンしかないわけですけど」

友達のように親しみやすい若い教授だったからというのもあるだろう。完全に気の緩んだ放言。先生は笑って次の個所に進むかと思いきや、笑みを消した後に沈黙した。

「……えーと、では次に行きます」

僕がハチャプリに飽き飽きしてることがわかったんだろう。次の個所を読むことはなかった。代わりにスシの存在を明かされ、もちろん口外禁止を徹底されたうえで、その日からスシについてのレクチャーが行われることになった。復帰してきた2人の前ではハチャプリ文学を読む。先生とはスシについて語る。こうして、ハチャプリとスシという二つの文化が、自分の中で二重に存在するようになっていったのだった。