寿司の唯名論、あるいは赦しについて

 どこからどこまでが寿司なのか、われわれはどの寿司からどの寿司へ向かうのか――そんな問いを、考えざるを得ない夜がある。やれたかも委員会があるように、あれも寿司だったのかも委員会が、あるのだろうか。ある世界もあるだろう。なければ作ろう、今日この夜に。

 というわけで寿司ブログの第三回は、寿司の唯名論について。カリフォルニアロールは寿司なのか否か、つまり寿司という言葉の適用範囲はしばしば問われてきました。多くの場合、答えは否です。「こんなものは寿司ではない」、そういう気持ちを感じたことのある方もいらっしゃるかもしれません。というか、そういった声はよく聞こえてきますよね。私は基本的には多くの寿司を許容していきたいのですが、デザート寿司のような甘い味付けのものは寿司として味わうのを躊躇してしまうことも事実です。たのしいおすしやさんとか。じゃあ寿司っていったい何なのか。

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(たのしいおすしやさん、ねるねるねるねのところが出してるんですね。全然関係ないですが私が愛着を持つ人はなぜ知育菓子を好きなんだろう。ちなみにこの間友人の小説が入った雑誌をツル知育研究東海というショップから取り寄せました。さまざまな知見で知育を研究したいですね。東海)

 寿司ってなんなの。この問いかけに、義経千本桜を引き合いに出すような輩は張り倒しましょう。確かに江戸前ではなく馴れずしを参照しようとする気持ちはわかりますし、鮎寿司が古くに記録されているのは非常に興味深いことではあります。ただ、寿司マフィア協会では、寿司の本流を定めるような発言は禁止されています。個別具体的なそれぞれの寿司を見出していこうという姿勢なわけです。

 とはいっても、あくまでもたのしいおすしやさんを寿司であると言い切るような、寿司錬金術を目指しているわけではありません。たのしいおすしやさんは寿司かもしれないけれども、それを寿司だと言い切れる寿司聖人はひどくまれであると言わざるを得ない。寿司マフィアには仏教の流れも入っていますから、無理にたのしいおすしやさんを寿司だと言い切るような修行も認められていません。寿司マフィアがなんだかわからなくなってきましたね。

 これはそんなに冗談で言ってるわけではなくて、たとえば他のジャンルのごはん(和食、パスタ、あるいはお菓子でも)を食べたときに、ごくまれに「これは寿司だ」というメッセージが脳内に流れることがあります。もちろんそれは、食材の化学反応や職人の技が寿司を想起させるだけなんでしょう。とはいえ私が感じる世界においては、それは個別具体的な寿司として受け止められるんです。

 「これは寿司ではない」が生み出す悲しみの世界と、「これは寿司だ」が生み出す(狂気をはらんでいるかもしれないが)許しの世界。サイケデリックな幻想に過ぎないとしても、私は後者の温かさを守っていきたいと思っています。今は海鮮三崎港になってしまった高田馬場の回転寿司で、こう書かれていたことを思い出します。「シャリは人肌の温度です」。