九頭龍高校籠球部

誕生日間近ということで、寿司屋に来た。二部制で、着くと少し待たされる。どうやら前半の客が遅れたせいで押しているらしい。人が店をあとにする姿を何度も見るのは珍しい。

店内に入ると酢の香りが立ち込める。第一部の残り香だろう。換気も兼ねて戸は開かれたままにされており、うなじが寒いと思ったあたりで閉じられた。

ペアリングやらマリアージュやらといったものを都市伝説だと思っていたため、飲み物に悩むが結局伝説を信じることにする。伝説といえば羽生善治九段が王将戦で2勝をあげたことは素晴らしい。どうやら寿司と一品料理が交互に出てくるらしい。

カウンターの逆サイドにいる有識者らしきおじさんが気になる。やたらと大将にも話しかけ、こういう人って一定数いるよなと最初は思ったのだが、次第に真の有識者感を醸し出してくる。曰く、裏返された小肌を出す店は日本に2つしかない。大将の説明もありがたい。裏返すことで本来の甘さと、皮付近のうまみを両立させることができる。正直言って寿司屋に限らず飲食店の人間の語りは余計だと思って生きてきたのだが、見事に結実したこだわりを的確に表現する言葉には感嘆した。

人間は味だけでなく香りも味わっているのだと、ワインについて勉強する中で読んだ気がするが、本当にその通り。ドイツワインリースリングと酢がこんなにも調和すると思わなかったし、料理と同時に日本酒を口に含むことで予想を超えた豊穣な香りが立ち上がる様は圧巻だ。よいワインをグラスに注いだ直後のように、香りが爆発的に立ち上がっては抜けていく......。酢にこだわりのない寿司屋はだめだと思うが、とはいえ酢を突き詰めた先にこんな世界があるとは舌を巻く。

ところで先日、どうしても欲しいパンツがあるにもかかわらずその柄の名前が分からず検索不能という事態が発生した。かなり困って結果として全然違うチェックを買うなどしてしまったのだが、ふらっと服屋に入ったところまさに欲していたものが置かれていた。バスケット柄と書いてあったが、今調べてみるとどうも再現性がないというか、その名称は一般的でないかもしれない。日本語にすると籠で、音を取っているだけだが竹の龍である。なぜこんなことを書いているかというと九頭龍という日本酒が出てきたからだ。というのはもちろん嘘だが(嘘というのは理由の部分だけ)。

九頭龍のキャッチコピーは「自由の扉をあける一杯」とのことだが、籠のように口を閉ざすことによって鼻孔へと抜ける道が開かれる時、ヘルメス主義の伝統において人間の身体が密閉されたフラスコのような化学反応の舞台とされてきた歴史が思い浮かんだ。というのは嘘で、酒が回って寝たものの朝方起きてしまった今、香りが抜けた口がそんなことを語り始めた。

近況:ポルトガル文学がアツい感じがしています。

 

軽蔑

2022年のまとめをしていなかった。もっとも、かつてそのようなまとめをしたことは一切ないのだが。2022年は人生をやった感じが強く、比較的危ない病気で入院・手術×4をこなし、その後諸々あって結婚した。結婚に伴い引っ越し、あとは面接というものを久しぶりに体験した(落ちた)。締切を破るのも人生初の体験だった。これは早急に解決しないといけない。

色々なことがありすぎてかえって長々と書く気になれないのだが、世の人は本当に自分語りがうまいと思う。

ところで先日ベケットの舞台《いざ最悪の方へ》を観た。もともとは戯曲ではないものを、舞台化したもの。そろそろ終焉すると言われるツイッターで感想を検索すると、①演者の驚異的な身体表現を称賛するもの、②スクリーンや身体へのプロジェクション等、ベケットの言葉との様々な格闘に意義を見出すもの、③窓からの身投げ(?)の身振り等、失敗することの演技に着目したものがあった。

①は論外で、みんなでコンテンポラリーダンスを観ようよという気持ちになった。②はわからないでもないが、2023年の演劇がその程度の趣向で終わっていいのか。③に関しては、たしかに失敗の演技だったのかもしれない。ただし、言うまでもなく失敗の演技は失敗に成功する定めにあり、その意味ではなんら枠を破壊するような力はなかった。失敗の演技ではなく演技の失敗が必要なのではないだろうか。それすらも古い、今は失敗に成功するのがアツい!ということなのかもしれないが。

こういうものを見た時に、あえて劣悪なものを見せることによってそのジャンルに対する批判的思考を促しているのか!?と思ってしまう癖があるが、絶賛の嵐ということはそういった企図も実現していないことになる。単にクオリティが低いものを無理に理論的に解釈するのもよくない気がするし、作品と向き合うのは難しいことだ。

ピーピング・トムは残っている席が微妙すぎて断念しました。

 

 

 

Alright

インターネット・デトックスの聖地、恐山に行ってきました!境内に入るや否や金属探知機のお出迎え。まるで国際線のようなボディチェックが異世界への旅立ちを予感させます。門番が矢継ぎ早に滞在の目的を問うてきますが、己をさらけ出すという意味でも正直に答えます。グーグルマップで評判が良かったから。

僧侶は仁王像へと変貌し、力づくでインターネット・ユーザーを追い出そうとします。そう、相撲がすべてを決める。曹洞宗は只管打坐を標榜し、穏やかな宗派としてのイメージを打ち出していますが、そこはやはり禅宗。仏に会えば仏を殺し、インターネット・ユーザーに会えばインターネット・ユーザーを殺す。力なき者は悟りに近づくことさえかなわない。

太刀打ちできない。仕方がないので下山します。逆方向へと進んでいくと渓流があり、秘湯に浸かるサルの姿が見えます。渓流の木陰の隙間からは、遥か遠くに輝く浜辺がうっすらと覗いており、絶景というほかありません。入るか入るまいか悩んでいると、サルが怯えたような顔で、しかし堂々と語り出しました。

「想いを知りつくして、激流を渡れ」

激流とは何のことなんだろうと思うや否や、コバルト色の空と海風が眼前に押し寄せ、息つく間もなく私を恐山の門前へと運びました。しばらく動けませんでしたが、どうにか気を取り直して再び門番と相対します。激流を渡りたい。そう告げると、門番は納得した様子で拳を振りかざし、勢いよく私の頬を殴りつけようとしてきます。間一髪かがんで拳をかわしたものの、そこは百戦錬磨の禅僧といったところ。すかさず飛んできた足払いを避けることができず、衝撃と共に視界が暗転。

しばらく気を失っていたことに気が付いたのは、鈍痛によって見開いた目が暗闇を捉えたからでした。夜になっている。もう一つ気が付いたのは、ここが門の内側だということ。先ほどまでは広々とした駐車場のそばにいたはずが、今ではその駐車場が門の向こう側に見える。門番が情けをかけてくれたのかどうかはわかりませんが、恐山では17時を過ぎると外界に出られなくなると言います。一度足を踏み出したら戻ってこられるかは不明。そうであるならば、このチャンスを逃すわけにはいかない。

恐山の宿である宿坊や本堂には近づけません。気が付かれたらつまみ出されるに決まっている。ここは野宿一択でしょう。幸いにも恐山にはいわゆる地獄があり、そこを抜けると極楽浜という浜辺もあるようです。深夜であればそのあたりに近づく人もいないでしょうし、動物の類も人里近くまでは下りてこないはず。火山の噴火によって形成されたという岩場を這うようにして進んでいきます。スマホの光だけが頼りです。

小高い丘の上に、小さなお堂らしき建物が見えます。このあたりまでは順調に進んできたのですが、浜辺に近づく道を見失ってしまいました。GPSでおおよその方角は分かるものの、道が見えない。方角だけを頼りにお堂の左手を潜り抜けていくと、サーファーの大好物である高波のような形に広がった岩肌に突き当たりました。何やら文字が刻まれているのが見えます。

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万が一始めてしまったら、永遠に岩肌を離れられなくなる予感がする。後ろ髪をひかれつつもこの道は諦めることにします。お堂まで戻り、今度は右手方向に抜けていくと、そこには荒れてはいるものの踏めないことはない階段が出現しました。足を踏み外さないように慎重に慎重に登っていっても、一向にどこかに辿り着く気配がありません。しかも、どんどん纏わりつく虫の数が増えている気がします。振り払ってはいるものの、間違いなくその度ごとに精神の余裕が失われていきます。

受信トレイ(22,569)

全てを一度に解決することはできません。一度お堂に戻って、道を再確認してみることにしました。ぐるぐるとお堂を回ってみると、なぜこんなしっかりとした道を見逃していたのか不思議なほどわかりやすい道がお堂の真後ろに見つかりました。これなら道なりに進むことができそうです。だんだんとさざ波の音が増してきます。ゴールはもう近い。ついに月光を反射する湖面が見えました。

しかしそこからが遠い。浜へと通じる道だと思って進んでみると、どこかで必ず中洲に行き着いてそれ以上進めなくなってしまう。それぞれの中洲の水面にはぼんやりとした人影が写っていて、覗き込んでみるとその姿は消えていきます。中には非常に魅力的な異性の姿をしたものもあり、水に足を踏み入れようかと思いましたが、なんとかその誘惑を振り払っては道を探ります。今思うと、あれは一種の底なし沼だったのでしょう。

ついに。ついに開けた湖面に辿り着きました。月明かりの中に、うっすらと浮かび上がる後ろ姿があります。かなりの猫背でヤンキーのように座り込み、毛むくじゃらの手には小さな光が宿っています。その光は蛍のように浮かび上がってたゆたうと、湖面へと吸い込まれ、一瞬の静寂の後に水龍となって浜辺へと押し寄せました。不思議と威圧感はなく、むしろ飲み込まれることで穏やかな気持ちになっていきました。どれほどの時が経ったのか定かではありませんが、濁流の中を泳いで下界へと戻ってきた私は、それ以来インターネットに囚われずに暮らしています。

かきとみみ

牡蠣耳を持って生まれてくる一族がいた。その名の通り耳が牡蠣そっくりになっている人間たちのことで、似ているばかりか実際にその耳は食べることができた。言ってみれば非常食を常に携帯しているようなもので、いわゆる寝貯めと同じように、栄養を十分以上に摂取すると彼らの耳には牡蠣(のようなもの)がなるのだった。もちろんきちんと耳管は働いており、プールで水が入った時のような気持ち悪さがあることを除けば、取り立てて生活に支障が出ることもなかった。というよりおそらく、彼らはその感覚を気持ち悪いとは思っていなかったことだろう。

牡蠣耳の一族が受難の日々を送るに至った理由は至極単純。その牡蠣(のようなもの)の味を他の人々に知られてしまったからだ。よくある非常食のようにぼそぼそしてなんともいえない味ならともかく、牡蠣耳(そう、その言葉は一族全体の他称であると同時に部位の名称としても流通した)はジューシーで、ぷりぷりとしていて、どういうわけか太古の海を思わせるような懐の深さを備えていた。時には暴力で、時には奸計にはめられて、彼らは牡蠣耳なんてもぎ取ってしまいたいと思うような暮らしを余儀なくされた。当然ながらそれを実行に移した勇敢な者もいたが、彼らの再生能力は凄まじく、数日もすると牡蠣と耳が生えてくる始末だった。言うまでもなく、この再生能力が知られると彼らの生活はさらに厳しいものとなった。

追い詰められた牡蠣耳の一族は次々とこの世を去ったが、彼らがあの世だと思って辿り着いたのは自らが切断した牡蠣耳の世界だった。彼らの再生能力は凄まじく、身体の大半を捨てても生き延びることができたのだった。あるいは、死ぬこともままならない、と思った牡蠣耳もあったかもしれない。もはや人語は話せないが、耳としての機能が残っているため最低限の意思疎通が可能であったことは、彼らにとって幸いであったと言えよう。

必然と言うべきか、いまだ人間の身体を残している牡蠣耳の一族は海へと還る計画を立てた。数少ない計画遂行者を除いて多くの人々が牡蠣耳へと姿を変え、人間に見つからないように松島の海へと向かった。木を隠すには森の中、牡蠣を隠すなら海の中というわけである。松島の牡蠣は当時からすでに名物であったが、牡蠣耳の引っ越しの後はさらにその品質が増したという。牡蠣耳は捕食の可能性を下げるため、己の牡蠣(のようなもの)をご丁寧に殻まで付けて海中の岩に配置して回っており、人間が天然ものと思い込んでいる牡蠣の中にはこれが混ざっていると言われる。牡蠣耳がそこになんらかの毒を仕込むような悪意を備えた生き物に進化したのかどうかは不明である。

 

2021年11月1日:2キロ

長いこと秋田に逗留していた。煮詰まってきたので下書きの段階で人に投げようかと思い始めた。それでいいと言っていたし、一人で抱え込むのはよくない気がする。秋田出身の人に出会ったことは一度しかない。

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www.youtube.com

2021年10月19日:80キロ

だいぶ間があいてしまった。いちおうサボっていたわけではなく他の作業などをしていたのですが、進んでいなかったのは事実。マップ上の距離感も鈍りに鈍っている。なんにせよ再び走り始められたことはよかった。

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これも10日くらい前のことですが、現実では那須に行ってきた。睡眠不足でやたらと登山がきつかった記憶。山づいた月だ。