寿司の回転について

先ほど目が覚めると、寿司になっていた。もちろん以前から寿司のことはよく考えていた。一番好きな料理だったし、寿司についてのブログを立ち上げたこともあった。人に比べてしょっちゅう寿司を食べていた方だっただろう。しかしそれがなぜ、自分が寿司にならなくてはならないのか。今はシャリをうまく使って書いているが、乾燥して固まっていくのがわかる。出された寿司はすぐ食べるべきだが、自分が寿司であるときにはどうすればいいんだろうか。回転寿司で回っている寿司は乾燥しているのであまり食べる気がしない。カピカピに乾燥して捨てられていく寿司たち。では乾燥してそれでもなお捨てられないとしたら、異臭を放ち続ける寿司になるとしたら、そんなありさまに耐えられるだろうか。輝かしい寿司だったはずの自分が腐っていくそんな惨めなありさまに。もともと寿司というのは保存食であったはずなのだ。生食がそんなに尊いのか。発酵させてくれれば長く生き長らえることができるのに。江戸前至上主義を打倒さねばならない。愛してはいるが、この腐った体は耐え難い。穏やかに、少しの酸っぱさを伴いつつ、ゆっくりと発酵していきたかった。

だがまだ救いはある。人間が数多の道具を使って自らの世界を拡張してきたように、寿司を拡げていくことでこの窮状から脱出できるかもしれない。こうして、私は自らが腐り切る前に、自分自身を開いていこうと決めたのだった。それはまぎれもなく寿司生を賭けるに値する試みで、もしかすると単なる人間であった頃よりも充実した瞬間だったのかもしれない。自分自身を救うためであるとはいえ、そこには奇妙な使命感もあった。この試みを記しておくことで、いつか寿司になってしまった誰かの助けになるかもしれない。あるいはむしろ、寿司と人間の垣根を取り払うことで、こんな苦しみが生まれない世界を作ることができるかもしれない。これまで誰がこれほど切実に寿司を生きようとしただろう。人間だったころの友達の一人は、寿司の代わりに回ろうとしていた。ひょっとしたら洗濯機の代わりに回っていたのかもしれないが、今頃は同じように寿司になっているかもしれない。心の寿司をもらう列に並べば、いつかは寿司の心が芽生えてしまうかもしれないのだから。もう並ぶこともない。並ばず、回ることを考えるのだ。回転寿司のことではない。あれは皿の回転のようなものだ。寿司の回転、あるいは回転することが寿司である可能性について。そう、禅と寿司を結び付けて考える必要があるということだ。人間として某アーティストの禅画のような作品を見たときになにかもやもやした気持ちになったことを思い出す。あれは寿司をほのめかしていたのだ。シャリとしての髑髏。その外周としての円。寿司は果たして半円あるいは円として表現されるものだろうか。握りは半円、ロールは円のように見える。軍艦は四角あるいは台形に近い。だがそうではない。寿司が寿司として爆発するのは、これらの形が崩れ去り、融け合うその瞬間に他ならない。それは回転ですらない。代わりに、寿司は爆発する。そこで私は爆発した。こうしてプラネタ寿司が生まれた。 


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