ベヒーモス

明日からモスクワ滞在だが、モスクワの寿司についてはだいたい知っているので、取り立てて好奇心は湧かない。だいたい知っているというのがおこがましく、ここ数年の間で変わったモスクワの寿司を探求すべきだと言う声も聞こえるが、なんというか、かっぱ寿司とスシローのちがいのようなもので、そこまで広がっていく未来も見えない(もちろん、かっぱ寿司とスシローについては来世で書いていきたい)。こうなると、生活を寿司にするしかなくなってくる。ただ寿司のないところで寿司を、というのは無理がある気がしてきた。(ロシア以外の)旅行先の寿司について書くのは面白いと思うが、そこまで資金も無い。とはいえ、土台がない状態で砂上の楼閣を夢見るというのも、無駄な営為ではないかもしれない。あらゆる現実を反射するものとしての寿司について、五里霧中のなか書いていってもいいだろう。『白鯨』を読むといいかもしれない。ベヒーモス寿司、すなわち寿司が有り余ると同時に有り余ったものが寿司である事態を考えれば、寿司食べ放題という悲しみに耐えることもできる。あるいは、ベヒーモスのことを思い出すために食べるのかもしれない。その意味で言えば、ロシアも寿司となろう。

寿司翼賛画

 スターリンが懐へ手を入れているのは社会主義リアリズムそのものなのかそれに対する抵抗なのかーー。その問いについては置いておくとしてひとつ言えるのは、スターリンが外套の内側で(ラスコーリニコフが斧を隠していたように)寿司を握っていたとしたら、社会主義リアリズムの輪郭が変わってしまうということだ。

つまり、画面において栄光が集中するのが、ナポレオン以来の権力者のポーズをとっているスターリンではなく、その内部に潜む寿司だとしたら。その寿司がもはや隠れることをやめ、スターリンを食い破るとしたら。

先人たちについて言えば、ボリス・オルロフは社会主義リアリズムを戯画化し、そのイデオロギーにまつわる図形を過度に展開することによって自らの作風を作り上げたが、ついぞその内部の寿司に気付くことはなかった。造形的にはアルチンボルドが最も人間と寿司のハイブリッドに近付いたと言えるが、アルチンボルドにとっては植物が皮膚を構成していた(もっとも、アボカドやキュウリについて忘れることはできない)。

オルロフとアルチンボルドの試みを真に受け止めたときに現れる寿司の顔貌は、あまりにもおぞましく、病的である。しかし、そこから目を背けてはならない。寿司はスターリンの身体を乗っ取ることによって、テロルの象徴となるのである。危機の時代にこそ寿司翼賛画を研究する必要がある。

 

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すすきのの寿司について書く

久しぶりにブログを更新する。寿司を食べたからだ。書きたいと思う寿司を食べたから。書いておきたい、残しておきたい、反芻したい、そんな寿司。

 

とあるすすきのの寿司屋で出会った。イバラガニの内子。オレンジ色のどろっとした卵である。振り返って書いている今でも思い出して叫んでしまう、うまい!!うまいよ!!!日本酒が進む。進む。はじめにこれをつまみとして頼んでしまったので、最初からクライマックスのような興奮が抑えられない。むしろその後に続く握りがクールダウンの役割を担うことになる。強烈なイバラガニの旨味を、穏やかな握りたちがマイルドにしていく。日本酒でもマイルドにしていく。ちなみに飲んだ酒は釧路の地酒である福司(ふくつかさ)。いちどご賞味あれ。

 

まだ旨味が消えない。後を引くドロドロが。いちど魂を溶鉱炉でグチャグチャにしたあとに、それでも残滓が顔を向けた方向に進む。正しいか正しくないかはどうでもいい。ただ、自分の魂はどこを向いているのかを悟る必要がある。そのための卵であり、そのための酒だ。寿司は魂を形にする。同時に、寿司は魂を脱形象化する。いきつく先は、鯵だった。

A.Y.U.

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去るという優しさもある。心中するのがベストなわけはない。射幸心は人を殺す。

そんなことを考えず、淡々とただ流れていくものがある。

鮎は味がないと言う人がいる。人生に刺激がないと言う人がいる。

清流。川辺に佇めば近くの家からDIYの音が聞こえてくるだろう。

寿司は時にお前がやれと語りかける。別に寿司を握る必要はないけれど。

 

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寿司戦争

ミズタニは油断していた。

ジロウの能力を甘く見ていたのだ。もちろんそれは、90歳という高齢に加えて、普段は部下に任せて自分は戦わないため、腕がなまっているだろうという甘い憶測によるものだった。

ジロウが攻略不可能と言われたダンジョン「スキヤバシ」を攻略し、そのままそこに部下と共に棲みついてから数十年。もはや実戦の勘など働かないだろうという思い込みが、ミズタニの命を危険に晒していた。

無論、ミズタニとて生半可な寿司者ではない。「スキヤバシ」ほど絶望的な深度ではないが、同じくS級認定されているダンジョン「シンバシ」にて迫りくるサラリーマンゾンビ1万匹を一握りで成仏させた逸話はあまりにも有名である。ミズタニの秘寿司「サヨリノコブジメ」は、触れるものすべてを爽やかに切り裂き、それを喰らった敵は涙しながら消えていったという。

なのに。数ある秘寿司の中からジロウが出してきた「エビ」には、触れることすら叶わない。ミズタニは驚愕した。「エビ」が基本中の基本の寿司だったからだ。ギルドに入りたての寿司者が、野生のファーストフード霊を倒すときの常套手段と言っても過言でないのが「エビ」だった。もちろんミズタニも「エビ」を握ることなど造作もない。

だが、ジロウの「エビ」は異様だった。それはあまりに大きかった。いや、実体化しているのはジロウの手のひらに乗ったこじんまりとしたサイズの握りに過ぎないのだが、それは「エビ」の核とも言うべき部分であり、イマジナリースシの領域を含めれば、車ほどの大きさにも見えた。より正確に言えば、ミズタニの目では「エビ」がどこまで広がっているのか、捉えることが出来ていない。

サヨリノコブジメ」が爽やかさで切り込もうとしても、どこまでが実体かもわからないような「エビ」のずっしりとした重圧の前に沈黙させられてしまうのだ。「サヨリノコブジメ」はその爽やかさと引き換えに、長時間攻撃を行うことができない。ゆえに一発で仕留めるつもりでやってきたのだが、完全にそれが裏目に出た。全てを吸い込む、「エビ」の厚み。

その時、突如として「エビ」の圧が消えた。ジロウが寿司を消したのだ。ミズタニは目を疑った。この寿司戦争において、寿司を解除するなど致命的。相手の寿司に瞬殺されるのは目に見えている。だが、現に目の前のジロウは寿司を消したではないか。

ミズタニの疑問はすぐに解決されることになる。

ジロウは寿司を消したのではなかった。「食べた」のだ。寿司者にとって、自らの武器である寿司を喰うことは、自殺に近い行為とみなされていた。というより、それを握り、喰らわせることに慣れるがあまり、「食べる」という選択肢を思いつかないのが現状だった。

ミズタニはジロウが寿司を食べたことに気付くと、すぐさま「サヨリノコブジメ」を締め直し、切り込もうとした。

だが、彼の指はいっさい動かない。

「エビ」がそこにいた。

ミズタニが握ろうとしていた「サヨリノコブジメ」はどこかに消え、代わりに現れたのは先ほどまでジロウが握っていた「エビ」。ミズタニは困惑する。だが、ジロウの寿司が手に入ったのなら、これで奴を攻撃することができる。

そう思った瞬間、ミズタニは「エビ」に覆われた世界を見た。

電柱、道路、マンション、コンビニ。「スキヤバシ」の構成物すべてを覆い尽くすように、「エビ」が繁茂していた。

その中心にジロウが位置していることは直感的にわかったが、もはや「エビ」に覆われたミズタニが彼を見ることはなかった。

ミズタニ、閉店。

意識を失いモンスターと化したジロウは、今も「スキヤバシ」の深奥で「エビ」を作り続けているという。

 

※この作品はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。ただ鮨水谷は閉店したらしいです。お疲れ様でした。

余計者、次郎。

私たちはやる事があってここで唄ってる。

ゴールデンウィークが終わった。たしかに終わった。5月5日までは論文を書いていた。締切が5月5日だったからである。5月5日までは論文を書いていた。その後、6日7日を経て今が8日なわけだが、6日7日の土日に遊びを詰め込んだ。遊びを詰め込んだんだ。6日は飲み会をこなしてから友人宅で夜通しパーティーをし、そのまま7日の昼間にカラオケをするという詰め込み具合だった。その一次会のことだった、彼が次郎に行くべきじゃないかと問いかけてきたのは。

次郎とはもちろん、寿司界の最高峰、すきやばし次郎である。電話しながら書いているので詳細は省くが、3万円だ。彼はすきやばし次郎の映画を見て感化され、次郎が高齢になった現状、次郎の死の前に食べに行くべきではないかと問いかけてきたのだ。目を開かされる思いだった。なぜなら、次郎について本気で考えたことなど皆無に等しかったからだ。次郎よりも天皇の方が心理的距離が近いくらいだった。いかんせん3万円である。非社会人(生まれて初めて見る単語だ)にとって、一回の食事で、あるいは何事であれ一回のイベントで3万円の出費というのは、村を焼かれたことがあるくらいの因縁がなければ出せない。村も焼かせたままにするかもしれないくらいだ。それを機に村から出れたと思うのはサイコパスだろうか、生きるための記憶の肯定だろうか。

本当に生きる上で必要なのか。どうしてもそう考えてしまう。そして、結論を言えばやはり必要ないということになる。次郎の寿司が無ければ輝かない生などゴミクズのようなものだ。次郎は余計者なのである。そもそも寿司自体、日々の生活のなかでなくても問題なくやっていける類の料理だろう。毎日寿司が出て来たら受け入れられない人もいるに違いない。だが、余計者であればこそ、やはり認め、味わう必要があるのではないか。思えば寿司マフィアも完全に余計者である。そう、2017年5月6日土曜日、寿司マフィアはなんか微妙に仲がよろしい感じの男女プラス寿司マフィアという3人での会をはしごした。なんか微妙に仲がよろしい感じの男女プラス寿司マフィアという3人での会をはしごしたのだ。完全にヨケイモノである。寿司マフィアがいない方がよっぽどうまくいくのではないかとよく思う。まあしかし、寿司マフィアがいるときにしか生まれない話題や空気や楽しみ方というのもあるだろうし、余計さがうまく機能することもあると思うんだ。5月6日から7日にかけてはそうだった。というわけで、自己弁護も含めて、やはり余計者を認めない世界は危うい。2の世界+αではなく、アナザー寿司ワールドなのだ。そうだ、そうしよう。2の世界も作っていけよな。というわけでやっぱりすきやばし次郎は行けるなら行くべきだと思う。行きたいよ。と思って調べたところ。

本店のご予約について

日頃よりすきやばし次郎本店をご愛顧いただきまして、誠にありがとうございます。

 

現在ご予約が取りにくい状態が続いており、お客様には大変ご迷惑をおかけしております。

客席が10席ほどの店舗でございますので、今後もこの状態が続きそうです。

大変勝手申し上げますが、当分の間お電話でのご予約は見送らせていただきたいと考えております。

 

なお、海外よりお越しのお客様は、ご予約の日時にご来店いただけないことがあり、ご宿泊先ホテルのコンシェルジュを通してのみのご予約とさせていただきます。

 

できますことなら、すべてのお客様にご来店いただきたいと存じますが、このような事情であることをお汲み取りいただき、ご理解いただけますようお願い申し上げます。

 

すきやばし次郎 店主

こんなことを考える前にカフカの城状態だった。どうすりゃいいんだ。どうすればいいのか具体的なコメントは募集してません。

東京サバ区

サバの身の断面図というか、切り身を横から見たときに模様のようになっているのが好きだ。イカではそうはいかない。もちろん包丁で切れ込みを入れれば話が別だが、イカそのものは紋様化されていない。

世田谷区はイカだ。もちろんイカはおいしい。だが寿司マフィアには世田谷区の模様は見えなかった。のっぺりとした住宅街。あの世田谷。あの世田谷はスマホ喪失者にとって、全く目印のない無機質な平面に見えた。

スマホを失ったのだった。理由、安いスマホ(フリーテル)を買ったので、ある日動かなくなった(正確には充電できなくなった)。そのため、最近はスマホなしで暮らしていて、必要なときはタブレットを使っている。だがしかし、自転車やバイクに乗るのに、それもふらっと乗ろうとしたときに、タブレットは面倒くさい。というわけで世田谷に行ったときには、何も持たずに行った。

その結果延々と彷徨うことになった。それはそうだ。ちゃんと調べていかなくて、情報機器がなければ迷子になる。それはそうだ。最終的には別に自分以外が調べてもいいのだと思い立ち、ガラケーで恋人に電話をかけ(ガラケーは小さいので持つのが苦ではない)、遠隔地から道案内をしてもらった。持つべきものは頼れる人間である。

イカはのっぺりとした表面を持っている。だから包丁で仕事をする。だが仕事をするのは包丁だけではない。歯もまた切り込みを入れる仕事をしていることを忘れてはならない。切り込みが入れられた(あるいは入れられていない)イカの表面を、さらに裂くものとして、別の方向に、別の個所に切り口を入れるものとして、あなたの歯は働く。舌はその切れ目を感知し、再び歯がすりつぶし、舌もまたすりつぶされたイカの感触を捉え直し、唾液と共に飲み込む。サバはやわらかい。どちらも味わってください。