寿司戦争

ミズタニは油断していた。

ジロウの能力を甘く見ていたのだ。もちろんそれは、90歳という高齢に加えて、普段は部下に任せて自分は戦わないため、腕がなまっているだろうという甘い憶測によるものだった。

ジロウが攻略不可能と言われたダンジョン「スキヤバシ」を攻略し、そのままそこに部下と共に棲みついてから数十年。もはや実戦の勘など働かないだろうという思い込みが、ミズタニの命を危険に晒していた。

無論、ミズタニとて生半可な寿司者ではない。「スキヤバシ」ほど絶望的な深度ではないが、同じくS級認定されているダンジョン「シンバシ」にて迫りくるサラリーマンゾンビ1万匹を一握りで成仏させた逸話はあまりにも有名である。ミズタニの秘寿司「サヨリノコブジメ」は、触れるものすべてを爽やかに切り裂き、それを喰らった敵は涙しながら消えていったという。

なのに。数ある秘寿司の中からジロウが出してきた「エビ」には、触れることすら叶わない。ミズタニは驚愕した。「エビ」が基本中の基本の寿司だったからだ。ギルドに入りたての寿司者が、野生のファーストフード霊を倒すときの常套手段と言っても過言でないのが「エビ」だった。もちろんミズタニも「エビ」を握ることなど造作もない。

だが、ジロウの「エビ」は異様だった。それはあまりに大きかった。いや、実体化しているのはジロウの手のひらに乗ったこじんまりとしたサイズの握りに過ぎないのだが、それは「エビ」の核とも言うべき部分であり、イマジナリースシの領域を含めれば、車ほどの大きさにも見えた。より正確に言えば、ミズタニの目では「エビ」がどこまで広がっているのか、捉えることが出来ていない。

サヨリノコブジメ」が爽やかさで切り込もうとしても、どこまでが実体かもわからないような「エビ」のずっしりとした重圧の前に沈黙させられてしまうのだ。「サヨリノコブジメ」はその爽やかさと引き換えに、長時間攻撃を行うことができない。ゆえに一発で仕留めるつもりでやってきたのだが、完全にそれが裏目に出た。全てを吸い込む、「エビ」の厚み。

その時、突如として「エビ」の圧が消えた。ジロウが寿司を消したのだ。ミズタニは目を疑った。この寿司戦争において、寿司を解除するなど致命的。相手の寿司に瞬殺されるのは目に見えている。だが、現に目の前のジロウは寿司を消したではないか。

ミズタニの疑問はすぐに解決されることになる。

ジロウは寿司を消したのではなかった。「食べた」のだ。寿司者にとって、自らの武器である寿司を喰うことは、自殺に近い行為とみなされていた。というより、それを握り、喰らわせることに慣れるがあまり、「食べる」という選択肢を思いつかないのが現状だった。

ミズタニはジロウが寿司を食べたことに気付くと、すぐさま「サヨリノコブジメ」を締め直し、切り込もうとした。

だが、彼の指はいっさい動かない。

「エビ」がそこにいた。

ミズタニが握ろうとしていた「サヨリノコブジメ」はどこかに消え、代わりに現れたのは先ほどまでジロウが握っていた「エビ」。ミズタニは困惑する。だが、ジロウの寿司が手に入ったのなら、これで奴を攻撃することができる。

そう思った瞬間、ミズタニは「エビ」に覆われた世界を見た。

電柱、道路、マンション、コンビニ。「スキヤバシ」の構成物すべてを覆い尽くすように、「エビ」が繁茂していた。

その中心にジロウが位置していることは直感的にわかったが、もはや「エビ」に覆われたミズタニが彼を見ることはなかった。

ミズタニ、閉店。

意識を失いモンスターと化したジロウは、今も「スキヤバシ」の深奥で「エビ」を作り続けているという。

 

※この作品はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。ただ鮨水谷は閉店したらしいです。お疲れ様でした。

余計者、次郎。

私たちはやる事があってここで唄ってる。

ゴールデンウィークが終わった。たしかに終わった。5月5日までは論文を書いていた。締切が5月5日だったからである。5月5日までは論文を書いていた。その後、6日7日を経て今が8日なわけだが、6日7日の土日に遊びを詰め込んだ。遊びを詰め込んだんだ。6日は飲み会をこなしてから友人宅で夜通しパーティーをし、そのまま7日の昼間にカラオケをするという詰め込み具合だった。その一次会のことだった、彼が次郎に行くべきじゃないかと問いかけてきたのは。

次郎とはもちろん、寿司界の最高峰、すきやばし次郎である。電話しながら書いているので詳細は省くが、3万円だ。彼はすきやばし次郎の映画を見て感化され、次郎が高齢になった現状、次郎の死の前に食べに行くべきではないかと問いかけてきたのだ。目を開かされる思いだった。なぜなら、次郎について本気で考えたことなど皆無に等しかったからだ。次郎よりも天皇の方が心理的距離が近いくらいだった。いかんせん3万円である。非社会人(生まれて初めて見る単語だ)にとって、一回の食事で、あるいは何事であれ一回のイベントで3万円の出費というのは、村を焼かれたことがあるくらいの因縁がなければ出せない。村も焼かせたままにするかもしれないくらいだ。それを機に村から出れたと思うのはサイコパスだろうか、生きるための記憶の肯定だろうか。

本当に生きる上で必要なのか。どうしてもそう考えてしまう。そして、結論を言えばやはり必要ないということになる。次郎の寿司が無ければ輝かない生などゴミクズのようなものだ。次郎は余計者なのである。そもそも寿司自体、日々の生活のなかでなくても問題なくやっていける類の料理だろう。毎日寿司が出て来たら受け入れられない人もいるに違いない。だが、余計者であればこそ、やはり認め、味わう必要があるのではないか。思えば寿司マフィアも完全に余計者である。そう、2017年5月6日土曜日、寿司マフィアはなんか微妙に仲がよろしい感じの男女プラス寿司マフィアという3人での会をはしごした。なんか微妙に仲がよろしい感じの男女プラス寿司マフィアという3人での会をはしごしたのだ。完全にヨケイモノである。寿司マフィアがいない方がよっぽどうまくいくのではないかとよく思う。まあしかし、寿司マフィアがいるときにしか生まれない話題や空気や楽しみ方というのもあるだろうし、余計さがうまく機能することもあると思うんだ。5月6日から7日にかけてはそうだった。というわけで、自己弁護も含めて、やはり余計者を認めない世界は危うい。2の世界+αではなく、アナザー寿司ワールドなのだ。そうだ、そうしよう。2の世界も作っていけよな。というわけでやっぱりすきやばし次郎は行けるなら行くべきだと思う。行きたいよ。と思って調べたところ。

本店のご予約について

日頃よりすきやばし次郎本店をご愛顧いただきまして、誠にありがとうございます。

 

現在ご予約が取りにくい状態が続いており、お客様には大変ご迷惑をおかけしております。

客席が10席ほどの店舗でございますので、今後もこの状態が続きそうです。

大変勝手申し上げますが、当分の間お電話でのご予約は見送らせていただきたいと考えております。

 

なお、海外よりお越しのお客様は、ご予約の日時にご来店いただけないことがあり、ご宿泊先ホテルのコンシェルジュを通してのみのご予約とさせていただきます。

 

できますことなら、すべてのお客様にご来店いただきたいと存じますが、このような事情であることをお汲み取りいただき、ご理解いただけますようお願い申し上げます。

 

すきやばし次郎 店主

こんなことを考える前にカフカの城状態だった。どうすりゃいいんだ。どうすればいいのか具体的なコメントは募集してません。

東京サバ区

サバの身の断面図というか、切り身を横から見たときに模様のようになっているのが好きだ。イカではそうはいかない。もちろん包丁で切れ込みを入れれば話が別だが、イカそのものは紋様化されていない。

世田谷区はイカだ。もちろんイカはおいしい。だが寿司マフィアには世田谷区の模様は見えなかった。のっぺりとした住宅街。あの世田谷。あの世田谷はスマホ喪失者にとって、全く目印のない無機質な平面に見えた。

スマホを失ったのだった。理由、安いスマホ(フリーテル)を買ったので、ある日動かなくなった(正確には充電できなくなった)。そのため、最近はスマホなしで暮らしていて、必要なときはタブレットを使っている。だがしかし、自転車やバイクに乗るのに、それもふらっと乗ろうとしたときに、タブレットは面倒くさい。というわけで世田谷に行ったときには、何も持たずに行った。

その結果延々と彷徨うことになった。それはそうだ。ちゃんと調べていかなくて、情報機器がなければ迷子になる。それはそうだ。最終的には別に自分以外が調べてもいいのだと思い立ち、ガラケーで恋人に電話をかけ(ガラケーは小さいので持つのが苦ではない)、遠隔地から道案内をしてもらった。持つべきものは頼れる人間である。

イカはのっぺりとした表面を持っている。だから包丁で仕事をする。だが仕事をするのは包丁だけではない。歯もまた切り込みを入れる仕事をしていることを忘れてはならない。切り込みが入れられた(あるいは入れられていない)イカの表面を、さらに裂くものとして、別の方向に、別の個所に切り口を入れるものとして、あなたの歯は働く。舌はその切れ目を感知し、再び歯がすりつぶし、舌もまたすりつぶされたイカの感触を捉え直し、唾液と共に飲み込む。サバはやわらかい。どちらも味わってください。

千葉

ブログを書く気がしなくなってきたねという会話をして、たしかになぜか書く気力がなくなっていて、それは一面ではある程度記事を書いたことによる倦みだと思うのだが、ある面では単に金銭的な問題だったりする。そう、金が無いゴールデンウィークを迎えつつある。それでも人と会うことはもはや習性になっているので予定はある程度増えていくが、人と会う予定と寿司はまた別だ。人と会う場合には誰かに会いたいと思ってから何をするかと考えるが(もちろん逆もある)、寿司の場合には寿司のために人を呼ぶ。もちろん一人で食べてもいいのだが、寿司が場であることは間違いないのだから、人はいたほうがいいのだ。

ランチ寿司でも寿司が寿司できないなんてことはない。しかし、ランチ寿司に合わせて気合を入れずに行くとろくなことにはならない。グレードの低い寿司なら低いなりに、全力で葬るのが礼儀だと言えよう。勝っても負けても礼を失ってはならない。グレードが高いからといってはしゃぐ客は寿司ではない。グレードなんて気にしたら負けだ。

そういう意味では、渋谷のカナダからの逆輸入寿司KINKAとか、センター街にある明らかに外国人向けの元気寿司なんかは、江戸前格付けワールドから逸脱しているので楽しみやすいと思う。いつだか元気寿司に行ったときは団体客の影響か異常に混んでいて、センター街で1時間近く待たされた。そして店に入ってみると日本人は全くいなかった。元気寿司の店頭でアピールしている寿司ミルフィーユ(カップに海鮮が層になって詰まっているやつ)を注文。タッチパネルで注文すると電車のように皿が飛んでくる様に驚いた(様々な寿司を食べることで、こうした細かい仕掛けにいちいち感動できる)。この手の寿司屋ではたとえばコハダなんかを頼んでも微妙な気持ちになるが、とはいえ面白いメニューが多いのでそれを楽しめばよい。なんといっても安いし。

スシロー、かっぱ寿司くら寿司。どれにも行ったことがない三大チェーン寿司童貞な寿司マフィアだが、いつの日か訪れることができるのだろうか。本当に見かけたことすらないので都市伝説なのではと疑い始めている。見たことがある人は教えてください。ゴールデンウィークに連れてってくれてもいい。

ロシアの寿司屋

この間、テレビでロシアの寿司屋が紹介されていたようだ。人づてなので詳細はわからない。奇天烈な海外の寿司を揶揄する内容でなかったことを祈る。そういうわけで、ロシアの寿司について。

言うまでもないが、ロシアの寿司はいわゆるロール寿司が主流である。もちろん中には日本人のやっているちゃんとした寿司屋もあるが、だいたいそういう店は高い。ホテルに入っていたりもする。個人的には、わざわざ海外で日本の伝統を守った寿司を食べる必要もないと思っているので、そういう店は開拓していない。あしからず。

学部のときに約1年モスクワに留学した際に、世話になったのが寿司屋だった。某モスクワの大学寮には多くの日本人が留学しており、寮でも(とりわけ交換留学の場合)アジア人ゾーンにぶちこまれることが多い。そのため必然的に共同体が出来上がるわけだが、見事にそこからあぶれ、半ば敵視されていたのが寿司マフィアだった。そんなとき、いつでも寿司はあたたかく迎えてくれた。正確に言うと温度としては冷たかったのだが。

人によって好みは分かれるところだが、寿司マフィアがいちばん通っていたのはプラネタ・スシというチェーンだった。ここは比較的握りに力を入れていて、そこそこのロシア感とそこそこのジャパニーズ寿司感をどちらも味わえてよかったのだ。それから、何より大事なことだが、セットメニューがわりとコスパが高かった。中でも軍艦セットがお気に入りだったのだが、去年か一昨年にモスクワに行ってプラネタ・スシを再訪した際、寿司マフィアは衝撃を受けた。お得なセットメニューが一掃されているではないか。海苔の代わりにキュウリで巻いたあの微妙においしくない軍艦が食べられない!絶望である。普通のカリフォルニアロールとトムヤムスープを頼んだ。あとタルフーン(ロシアの緑色の炭酸飲料)。

それにしても、自分の舌が肥えたのか、プラネタ・スシの味に全く満足が出来なくなっていた。これはこれでいい。それほど当時の自分は窮地に陥っていたということだし、また人を支えるにはそれくらいの寿司で十分だということでもある。あるいはこう言うこともできるかもしれない。短期滞在では寿司を味わうことは不可能なのだと。寿司だけが、もう一度モスクワに住む気を起こさせてくれる。

ちなみにもう一つの有力なロシアの寿司屋はドヴェ・パーラチキ(二本箸)で、ここはシャリが堅めなのがいいところです。あとトイレの個室内に便器が二つある。

http://planetsushi.ru/

http://dvepalochki.ru/

南青山一丁目

長らく書けていなかった。今も書ける気はしないが、書いておこう。書ける限りで。

本業で書けないのは怠惰ゆえだろうが、こちらはむしろ安定期に入ったからこそ書けないことがあるように思う。寿司との関係の安定。安定したがゆえに意識しなくなる。恋愛然り。そうであるとすれば、意識しないのは幸せなことなんだろうが、とはいえそれでいいのだろうかと悩んでしまう。それが幸せなのだとしたら、どうすればいい。幸せのために幸せが見えない時にはどうすればいい。

そこで映画だ。ひとつの手段として。同じような話を手を変え品を変え。よく飽きないものだ。飽きているから飽きない。この構造を使うしかない。そして映画は見るだけのものではないはずだ。で、あれば、寿司の風景が映画であってもいい。あるべきだ。あろう。そうだろう。であれば。

映画がデートの代名詞になっていることが理解できない。正確に言えば、「映画は苦労せず時間がつぶれるし、終わった後にそれについて話せばいいから楽」などと書かれることが不可解でならない。見終わった後には全くもって話したくない。なるべくなら映画について話さずに雑談していたい。この手の、「話してはいけない」という強迫観念めいた命令をしばしば感じる。「話してはいけない」を共有したことはないように思う。人と映画を見に行きたくないという話ではない。

ミュシャと彌生を同時開催するのはいかがなものか、ネタにネタを重ねるようなものだ。彌生を無視して、ミュシャの人混みをサーフして南青山へ。銀座ウエストは超満員、手前のフレンチという気分と懐具合でもない。脇道に入るとまさに昭和という風貌の寿司屋が目に入る。逡巡し、「餃子600円」という看板の矢印に従って歩いても何も発見できず、意を決して入ることにする。表からは想像できないほどモダンな内装。手頃な価格設定にも関わらず想像を上回ってくれる味。かわいらしいアサヒのおまけビールで記憶が他と区別され。店の向かいには今月出来たという服とアートのこじんまりしたギャラリー。北欧の陶磁器。内輪の会話。霊園と火葬場。刑務所にしか見えない議員宿舎。彌生の顔。

映画を5本借りてきた。

https://tabelog.com/tokyo/A1307/A130701/13001184/